午後から1時間ほどかけて下五井古屋敷址(豊橋市下五井町字城屋敷)と満光寺(豊橋市瓜郷町高道)を散策してきました。
前者は、城主は中島氏、星野氏などといわれていますが在城時期など詳細はわかっていません。遺構もありません。豊川の行明城の星野一族に日向守などがいて武田氏に属して没落したという伝承がありますが、今川に従った星野一閑の同族なのでしょうか・・・。
日吉神社を目標にして、神社の駐車場をお借りすることにして、住宅地図を広げ神社南側に広がる亀甲形をした字城屋敷周辺を回ってきました。新しいアパートなども出来ていますが、この地域は区画整理もほとんどされておらず、明治の地籍図と現在の住宅地図とほとんど変化が見られないようです。古くからの屋敷もあるようで、付随した屋敷林も見られます。地区の公民館敷地に延命地蔵や弁財天が祭られています。明治の地籍図には墓地表示があり、現在宝筐印塔や萬霊塔、常夜燈などが見られています。移動されず長くこの地域にあったとすると、ここが昔から地域ネットワークの中心地だった証拠といえるでしょう。

曹洞宗満光寺は国道1号線沿いにあります。近くには弥生時代の貝塚や住居跡が発見されている瓜郷遺跡があります。
満光寺は天文年間に大津波で堂宇が流されて記録が残っていないものの、創立は梵鐘からも大永年間(1520年代)に遡るものと思われます。一歩先は1号線の喧騒がありますが、ここはそれを忘れさせてくれるほどひっそりとした佇まいでした。お寺の広い駐車場がありますので、お借りできひとまず安心。
阿弥陀如来様で有名なお寺ですが、わたしの目的は岩瀬雅楽助の墓のお参りにありました。雅楽助は入道して嘉(歌)竹と号しています。『寛政重修諸家譜』には岩瀬氏俊の子供として“氏定”とし、天正3年設楽原合戦で戦死したとあります(法名:法林院殿松誉春光嘉竹大居士)。「可竺」と記載した古書もあります。
岩瀬雅楽助は蒲郡の大塚(岩瀬)城で出生。永禄4年(1561)下長山に移りました。今川氏に従った東三河十七騎の一。今川氏の命により、西条城(現在の西尾城)に入っていた牛久保牧野氏を補佐。のち家康に従いました。豊川市下長山中屋敷には春光塚跡地にお堂があります。嘉竹の子息小次郎は千両に移りました。3男小四郎は今川氏の代官。一族と思われる岩瀬小五郎という人物も下五井方面の代官だったようです。
牛久保に残った一族、瓜郷に移った一族が見られます。満光寺墓地内に岩瀬氏の子孫の墓が見られるので、瓜郷に移った一族がこの墓を建立し守り続けていたのでしょうか・・・。墓石には岩瀬嘉竹斎墓と縦2文字ずつ3列にわたって書かれてありました。
お参りに訪れた当初は一般墓地内を一生懸命に探してしまいました。子孫の方の墓石とともに無縁仏化しつつあるようなので、とても残念です。

【参考文献】
・牛久保・長山郷土史史料写真集
          安井四郎著(S57)
・豊橋市史 第1巻 (S48)

(追記)
なお、岩瀬雅楽助は桶狭間合戦後に上佐脇村〔御津町〕に帰農して岩瀬吉十郎貞秀と名乗ったという言い伝えがありますが、こちらは勉強不足で詳細はわかりません。

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