宮浜温泉にてリフレッシュ
7月中国、四国に長期滞在した際に、宮島に久しぶりに立ち寄りました。しかし余りの暑さに厳島神社への参拝もそこそこに宮島口へ取って返し、あなご飯で腹ごしらえ。

廿日市市にある宮浜温泉の庭園旅館に早めのチェックイン。露天風呂にゆっくり浸かり、久々にリフレッシュできました。庭園の薄明かりを楽しみながら創作にも力が入り、あっという間に夜が明けてしまいました(笑)。
賢島にてリフレッシュ
息子のリフレッシュのため、豪雨の中、伊勢志摩の旅に出かけました。見学予定は雨風のためほとんどキャンセルとなりましたが、メインは2年ぶりに宿泊する賢島にある旅館。宿に到着するころには雨も小降りになり、到着後さっそく客室露天風呂へ。さっぱりしたところで、これでもか!というくらいの膨大な夕食の前にさすがの私も撃沈。

松江城にて

2007年11月16日 旅行
松江城にて
山陰・山陽の旅から戻りました。1日で500km近く走り回るのは、かなり堪える歳になりました。
行程の半分は大荒れの天候で、雷雨撤退を何度も余儀なくされましたが、妻子の目的地、出雲大社と水木しげるロードを何とかクリアできて良かったです。初日は自宅を午前4時過ぎに出発。午後2時過ぎに松江市に到着。
久々の松江城訪問でしたが、息子が不安定なため城内に入るまで1時間ほどかかり、結局単独行動せざるを得ず、その後妻から「戻れ!コール」が入り、わずか30分ほどであえなく撤退しました。もっとも登城途中で左足首を捻挫してしまい、それ以上の歩行は無理だったと思います(苦笑)。

山中城址にて

2007年7月6日 旅行
山中城址にて
年1回の家族旅行。息子の関係で汽車旅行は不可能ですので、やむを得ずクルマを使用しました。昨年は伊勢志摩、今年は伊豆方面。今年もかなりの散財となりました。毎月の小遣いが5000円(最近2000円UP)の私としてはたまらない。私の子供時代は民宿など廉価なお宿ばかりでしたが・・・。

田方郡函南町の酪農王国オラッチェでヤギなどと戯れて、おいしい牛乳とスイカジュース(ソフト付き)をいただきました。酒豪の妻は地ビールをすかさず購入。
その後、日本百名城の国史跡・山中城址(三島市)に立寄りましたが、雨と霧の洗礼を受けました。当然ながら、30分程度の時間で一人で回って来い!と家族から指令が出ました。ほんとうは息子のために箱根旧街道を含めて歩こうとしたのですが・・・。
さすがに岱崎出丸(こちらは函南町)まで含めると見学の所要時間は30分では無理なので1時間の延長許可をなんとか得ることができました。事前に画像&イラスト入りの旅行計画書3枚を提出したおかげで助かりましたW。
ここに来る時はいつも雨天が多いですね。やはり私は雨男なのでしょうか(笑)。散策道は水溜りだらけでした。西の丸跡に達したころは濃霧のため視界が数メートルまで落ちました。城址から見る富士山も次回までお預けです。
天気のせいか、岱崎出丸址では人っ子一人出くわしませんでした。貸切状態でした。障子堀・畝堀の見事さにはいつも感動します。雨でびしょ濡れになってしまい、女性の見学者ご一行に笑われましたが、一向に苦になりませんでした。
休日乗り放題きっぷで富士宮を訪ねて
妻子が実家で羽を伸ばしているのをいいことに、JRのさわやかウォーキングに出かけてきました。せっかくだから遠出をしようと思い、当初予定していた地元コースではなく、静岡コース(山本勘助ゆかりの地と流鏑馬祭り満喫ウォーキング)を選択しました。
さっそく、フリー区間が東海道線(豊橋〜熱海間)、身延線(富士〜甲府間)、御殿場線(国府津〜沼津間)である休日乗り放題きっぷ(2600円)を入手。
午前6時前に自宅を出て、午前9時30分頃スタート地点の身延線入山瀬駅前に集合しました。身延線のワンマンカーや駅前はウォーキング参加者で溢れかえり、さすが勘助人気ですね。
勘助の両親と伝えられる木像のある代信寺→勘助坂→生誕候補地・吉野本家→浅間大社(湧玉池)→富士宮駅を回る約10kmのコースです。
曇りがちで富士山の勇姿が拝めず残念でしたが、気温はぐんぐん上昇、汗ばむ陽気となりました。吉野本家の長屋門前では、地元の勇壮な山本太鼓演奏に元気づけられました。しかしゴール直前に、不注意のため頭部と肩を負傷してしまいました。思わぬ出血のため、名物の焼きそば、浅間大社の流鏑馬見学や露店散策をあきらめて静かに休憩することに・・・(泣)。

節分の参拝

2007年2月3日 旅行
節分の参拝
節分の日、岡崎の六所神社(明大寺町耳取44)に参拝しました。名鉄東岡崎駅の東方徒歩数分の場所にありますが、赤鳥居をくぐって名鉄の踏切りを渡って参道に入ります。
六所神社は松平親氏の東加茂六所大明神勧請にはじまるとされます。清康公の岡崎城入城とともに遷され、家康公誕生の際には産土神として拝礼を受けたといわれます。
お年寄りには急な石段を登ります(石段下の右手から駐車場側の回り道があります)。5万石以上の大名しか登れなかったという石段・・・。大名になった気分で登りました〈笑)。
石段のうえにある入母屋造りの楼門(1688年造営・国重文)をくぐると、江戸時代初期に建てられた権現造りの国重文の拝殿以下の建造物が現れます。
ちょうど節分の神事が執り行われていました。豆まきは既に済んでしまってたようです。拝殿左手には豆をぶつけられた紙製の鬼が悲しそうな顔をして取り残されていました。
今年のラッキーカラーという紅色のお守りをいただいてきました。
延命山永住寺(新城市裏野3)
JR新城駅から徒歩10分ほどの距離にある永住寺は、田峯菅沼定忠の二男で足が不自由であった鵬雲文翼が創建した曹洞宗のお寺です。立派なマツが山門とともに迎えてくれます。山門左手には、新城の俳人・太田白雪の句碑と説明板が建てられています。

当初この寺は平井の地にありましたが、焼失後、天正2年奥平貞能が現在の地に移しました。大谷城で死去した兄定広の位牌もあるようです。貞能が寄進した梵鐘が伝えられています。
本堂左奥の墓地内には新城城主水野分長や白雪、戦前の探偵作家大阪圭吉などの墓があります。

お墓参りを終えてから、ふと右手の建物を見ると、彩色?兼備or兼美?な閻魔さまたち(十王だったかな?)がこちらをご覧になっていてとても驚きました。私の悪行?を審理をしてくださいました。(笑)
近くには、山門が長篠城の移築門だと伝わる桃牛寺もあります。
お城巡りのお菓子?
お昼過ぎから新城市内に出向く用事がありましたので、単独で出かけようとしたところ、なぜか息子を連れて行くことになりました。所用を済ませた後、町並の菓匠山梨屋さんで、最近名物尽くしづいている息子が、ある和洋菓子を発見・・・!「新城銘菓 城づくし」
包み紙に旧新城市内の城址が小さく書かれていました。城址の説明書きがあるわけでもなく、すべての城址ではなかったけれど、かなりマイナーな城もあったので、気に入り、即座に購入しました(笑)。
息子は、「なかなか美味しいね♪」と言っておりました。それにしてもお店の方は城が好きなのかな?
151号線沿いに新しい店舗を作っているようだったので、オープンしたらまた立寄ってみようと思います。
東海自然歩道プチ散歩(引地〜椿坂)?
16丁目の登りからは道幅が急に狭くなり、探検気分が楽しみやすいのですが、ガラ石に足をとられてすべりやすいく、足元注意の立て看板が右手に見えました。そしてついに椿坂到着です。
息子は大喜び!右手上方に椿の巨木が。この時期、花は咲いていませんが、息子は花を見たいな〜♪を連発。
さっそく椿地蔵さまに参拝。地蔵さまといわれても、場所が違えば石ころと間違われてしまいそうなお姿です。左隣の説明書きのある石碑がなければ、東海自然歩道を行き来する人々にも気づかれそうにありません。
説明碑は、平成2年6月22日に菅沼家一族のご子孫の方が建立されたもので、墓が荒れ果てていくのを知って建立を決心されたそうです。地元の新聞にこの記事が掲載された時には、私も感心して、参拝しました。

椿地蔵さま脇の石碑には、縦書きで「椿地蔵 菅沼三右衛門定圓の墓」とあり、定圓が野田城主菅沼定村の弟であり、今川に背いて織田についたことにより、弘治2年(1556)8月21日布里合戦で敗れ、この椿坂で討ち死にした(29歳)ことが記されています。今川義元討ち死にの4年前のことでした。

息子は、討ち死にの意味がわかったようで、何度も地蔵さま手を合わせていました。参拝の後の息子の足取りは非常に軽やかで、引地まで45分で戻りました。息子のリュック荷物(安心グッズのぬいぐるみや絵本どっさり)は私が替わりに背負っていましたが・・・(笑)。
東海自然歩道プチ散歩(引地〜椿坂)?
鳳来寺道には街道に沿って丁石(丁目石、町石)が建てられています。1丁は約109mですが、多少石の移動があるように思われました。息子は引地からずっと、梵字が入ったこの丁石を見つけては、また次の目標(丁石)を楽しみにしているようでした。天気は良かったのですが、この時期さすがに寒々としていて、街道には人っ子一人いませんでした。

拾丁目あたりでは、立派な石垣が並んで壮観ですね。石仏、大岩ありで冷気も気持ちよく感じていたんですが、普段体育の授業を受けていない息子にとっては、片道2km程度の平坦な道のりもしんどいようで、次第に笑顔も消えてきました。
ガラ道の登りが始まる十六丁目前の休憩所(ベンチ・テーブルあり)で昼食。ここまで息子のペースに合わせて休み休み来ているので、引地地区から約50分かかっていました。ここで握り飯(昼食は300円以内に抑えなさいとの妻からの指示・・・笑)と冷たい麦茶。さらに杉や檜の谷間を渡る風が冷たく、休憩もそこそこに出発しました。

ここから湯谷峠まではわずか10分足らずのはずですが、息子の足取りは重く、チック症や喘息の咳き込みも激しくなり、10歩歩いてはへたり込みます。幼稚園の頃は毎日のように山登りしていた息子も運動不足は否めません。さすがに見かねた私が中止を伝えましたが、「いま引地まで引き返したらただ疲れただけだ。何も残らない。なんとしても椿地蔵さんが拝みたい。椿坂までは行く!」と言うので、十九丁目にあたる椿坂を目指しました。
東海自然歩道プチ散歩(引地〜椿坂)?
今日は好天に恵まれて、久々に早朝から単独で史跡巡りだ〜♪・・・と思っていたのですが、家族の反対にあいました。最近歴史嫌いな妻は、出かけるのは1ヶ月に一度、しかも息子を連れて史跡巡り以外にしなさい!ということで朝6時前から9時過ぎまで息子との遊び相手と食事の支度に追われました
しかし息子が「探検ならいいから連れて行って♪」と乗り気だったので、急遽2人で三河大野に出かけることなりました。平成16年11月の大野城散策以来です。今日の目的は息子の体調に合わせて東海自然歩道(秋葉山・鳳来寺道)をちょっとだけ歩くというもので、往復2時間程度の予定をして、JR飯田線三河大野駅を出発しました。
引地地区の飯田線踏み切りを渡り、民家の間を抜けると、自然歩道の案内板が。息子はよく歩いて湯谷峠が限界。行者越えなどは問題外というところでしたので、登りが始まる椿坂付近を目途に
水琴窟(旧糟谷邸)
赤馬Go!を借りた吉良図書館裏には、尾崎士郎記念館と江戸時代の豪農・豪商で木綿仲買、米穀や金融業、雑貨販売などで栄えた大多喜藩(大河内松平)御用達の糟谷家住宅を保存した旧糟谷邸(県指定)が有料公開されています。
初代糟谷縫右衛門重賢は、16世紀はじめに当地に来て東条吉良氏に仕えた武士で、やがて帰農し、代々縫右衛門を名乗っています。
今回は予定外の行動でしたが、久々に茶室や庭園のほかに水琴窟の音を聞きたくて見学しました。
水琴窟の音色は、説明テープの音で聞き取れなくなってしまうくらいのかすかな音です。おそらく地下に甕が逆さに埋め込まれているのでしょう。水滴が落ちると甕中で反響して澄んだ音を聞かせてくれます。
母屋前にある長屋門は、延享元年(1744)の建築で、天保期に小牧陣屋から移築されたと言われていますが、確証はないようです。
西福寺の鐘楼(幡豆郡吉良町吉田桐杭)
小山田地蔵さまを後にして、役場方面を目指してひたすら西南方向へ赤馬Go!を走らせました。小山田の神明社前を通り、妙隆寺の南を抜けると、やがて矢崎川に達します。川に架かる橋の名は、「血洗橋」。橋名の由来を調べるのを忘れてしまいましたが、いくさに関係でもあったのでしょうか・・・。ところで、先にUPした赤馬Go!の画像は、この橋の前で撮影したものです。

さらに西に進み、名鉄西尾線の踏み切りを越えると、地方道西尾吉良線に出る手前にひときわ目立つ鐘楼(県指定)が現れてきます。ここは浄土宗の北星山西福寺です。寺の創建は、建長6年(1254)で、当初は天台宗だった由。北条時頼が創建に関与したという言い伝えがありますが、それはあくまで言い伝えのようです。寺は14世紀に焼失するなど、浮き沈みもあったようです。
問題の鐘楼ですが、最初は岡崎の伊賀八幡宮にあったもので、将軍家光によって作られたようです。しかし維新後の廃仏毀釈の嵐の中、明治4年(1872)に西福寺が買い取り、移築したものです。しかし鐘自体は移されなかったようですね。
桁行三間、梁間二間、下層が袴腰付きの入母屋造の建造物です。屋根部分は現在瓦葺となっていますが、移築前は檜皮葺でした。
しばし時を経つのを忘れて、鐘楼を見上げていました。
今はなき足利誓いの松(小山田地蔵)
饗庭城跡の前の道を東南方向へ自転車で7〜8分も行けば、小山田地蔵さまとして知られる曹洞宗萬松山勝楽寺があります。本尊は子安地蔵菩薩。安産祈願で有名です。
寺の創建は、延元4年(1339)と伝わり、足利尊氏が寺の入口に、国家安泰と万民の幸福を願って松(足利誓いの松)を植えたといわれています。

教員をしていた20年前、宝物殿を見学に訪れた時には、見上げるような樹高32mのクロマツ(県指定)はまだまだ元気だったように思いますが、近年になってマツクイ虫の影響とかで、枝も折れ始めてしまい危険になったため、今年1月に伐採され、600年ほどの生涯を終えました。根も掘り除かれて、今はわずかにその掘り穴だけがむき出しになっています。

クロマツの由来を書いた説明板がなんだか悲しかったです。設楽原の信玄塚のマツのことを思い出してしまいました。
金蓮寺弥陀堂と阿弥陀さま
レンタルした「赤馬Go!」を暴走させながら、吉良町饗庭方面に向かいました。まず三河七御堂の一、国宝金蓮寺弥陀堂(鎌倉期と推定)をまず拝観し、その後、白山公園方面及び饗庭城跡、小山田地蔵さんへと疾駆してまいりました。

曹洞宗金蓮寺は饗庭のお不動さんで親しまれています。境内にあるお不動さんの名水は、寺の東方に位置していた饗庭城の茶の湯にも使われたという言い伝えがあります。この名水を飲むと金運に恵まれるらしいです。
5〜6年ぶりに訪ねましたが、弥陀堂に阿弥陀如来さま(県指定)、左側の勢至菩薩さま、右側の観音菩薩さまが変わりなくおわしました。ホっとしました。参観者は私以外に1人だけ。サンダルに履き替えて縁に上がり、合掌すると、ん?以前阿弥陀さまはもっと黒々としたお顔だったはずなんですが・・・。
それにしても国宝建造物でありながら、気楽に立寄れるこの開放感・・。訪ねる人にとってはありがたいことですが、保存管理していく方はさぞかしご苦労があることでしょうね。

戦後しばらくして、お堂は解体修理され、檜皮葺き、一重寄棟造の現在の形に戻りましたが、古写真の修理前の形状を見ると余りの違いに唖然としてしまいます。
鎌倉中期に造られたといわれる仏さま方は、手や台座の蓮弁など痛みが激しく、延宝8年(1680)に修復を施されて以来、修理がなされていません。檀家が1軒しかないため、修理費用もままならないようです。費用の見積もりは約1200万円とか。県や町からの補助金を得ても500万円ほど不足してしまうようです。そこで地元の住民の方たちが中心になって、募金活動を始められました。ぜひ貴重な仏さまたちを無事後世に伝えていってほしいです。
ただ必要以上に手を加えてしまい、お堂にそぐわないような仏さまにならないよう願っています。
 

赤馬Go!

2006年12月10日 旅行
赤馬Go!
夜遅く仕事から帰ったところ、部屋が真っ暗で妻子がおらず、突然車で実家に帰ってしまったことを知りました。そして「電車で迎えに来てください」との伝言。
日曜日は天気も良かったので、散歩がてら家族を迎えに行くことに決めました。目的地は幡豆郡吉良町。朝早い時間に仕事を片付け、JR東海道線で蒲郡駅下車。名鉄普通電車に乗り換え、西尾線三河荻原駅(吉良町)で下車。ずいぶんと慣れ親しんだこの駅も今週末には廃止になるのです。まったく寂しいですね。今日も記念撮影をしている方が目立ちました。

まずは駅からほど近い浄土宗海蔵寺を訪問し、佐久間盛政の墓(首塚)に参拝。続いて旧糟谷縫右衛門宅を10数年ぶりに見学した後で、隣接した吉良図書館に移動しました。ここで、機動力UPのための最新鋭秘密兵器?「赤馬Go!」を無料レンタルさせてもらいました。吉良だけに赤馬です。目立ちますし、なんだか楽しい♪そして非常に重宝しました。図書館以外の文化広場、コミュニティ公園もで借りられ、各施設での返却が可能なので助かります。

赤馬Go!の詳細は、下記の広報きらのHPを参照してください。

http://www.town.kira.lg.jp/pub/sonota/kouhoukira/index.html

赤べこ

2006年11月23日 旅行
赤べこ
(磐越西線赤べこ 2005/11会津若松)
ちょうど1年前、郡山から猪苗代、会津若松方面を旅した際の携帯画像です。JR磐越西線455系の赤べこが印象的でした。三河人の私としては、このキャラクターを見ると、赤べこよりも赤馬(三州吉良)を思い出してしまいます。たくましくすると、汗血馬、赤兎馬あたりか(笑)。

ゆったりと家族で旅したい地域ですが、我が家は半永久的に遠距離旅行は夢のまた夢ですね。
八幡から萩の寺へ
豊川方面に買い物の用事があり、ついでに八幡宮に参拝し、豊川額田線を通り、平尾町内の東名高速道路子下を通過、駒場調整池の北東からゴルフクラブ手前を通り、音羽町に入りました。中山トンネルを抜けると、羽根交差点から右折してR332(大代音羽線)を北東に向かいます。このコースなら八幡から音羽町がなんと近いことか・・・。
目的地は、4月半ばにピンク色に咲き乱れるコバノミツバツツジの群生地で有名な、音羽町萩地区の富士神社あたり。背後の背戸山は楽しいハイキングコースなのでつつじ祭りの季節には子連れで出かけます。今日の真の目的は、隣接した善住禅寺。ここでは芙蓉の花を愛でてから、展望用の櫓に登りましたが、高さの上でも方向的にも、あくまで花の季節に眺めるためのものでしょう。
息子が寺の御神籤を引くと「小吉」が出ました。息子が「大凶」の籤もあるのかと聞くので、私が22年前日光東照宮に参拝した際に大凶を出したことを教えました。でもあの時は修士試験にも合格したし、ものは考えようです。

善住禅寺の正面向かって右手の山際の上り口を少し登り、墓地の一画にある萩城主奥平家の墓に参拝しました。ここは作手二代奥平貞久の四男である主馬允が萩に進出して興した萩家の墓地です。目新しい「萩城主奥平周防守家之墓」という石碑が建てられています。
萩家は7代目に中金家の正俊を養子に迎えましたが、興禅寺における刃傷事件で黒屋家五代内蔵允を兄の中金隼人に加勢して主馬允正俊も切りつけたことが発端となり、自刃した内蔵允の息子源八の仇として山形上ノ山において正俊が討たれました。やがて寛文12年(1672)江戸の浄瑠璃坂で仇討ち事件が起き、隼人も討ち取られました。この結果、萩家は断絶しました。
3年前に息子とともに音羽町内の城跡を訪れているので、今日の城跡散策は強制的にパスとなりました。
野田城跡井戸と本宮の湯
今日は息子と二人で新城方面に買い物と立寄り湯に浸かる目的でドライブに出ました。さて温泉はどこにしたものか・・・。
杉山付近にある銀ちゃんラーメンで腹ごなしをしてから、「お風呂に入る前に、軽く散歩でもするか?」と息子を誘うと、「探検したい♪」と言うので、以前も連れて行ったことのある野田城跡(新城市豊島)の井戸の話をしたら「すごーく見たい!」と一言。R151を豊川方面に取って返し、野田城跡の説明板前に到着。息子の「さあ〜、いくぞ!早くついて来い!」の声に励まされて、やぶ蚊や様々な昆虫に悩まされつつも、本丸井戸に一目散。「うえ〜深いね〜!落ちたら痛いかな?」と息子はのぞきこむ。また息子なりに土橋と空堀の規模に満足し、横矢掛けも何とか理解してくれて、記念撮影をすると、「このお城なかなかだよね〜。でもめちゃめちゃカユイ!早く引き上げよう!」と短時間で退散しました。私が中学校時代に体験した怖い話をしていたら、絶対にこの城跡には行きたくないと言っていたでしょう。
この日の立寄り湯は本宮の湯(旧一宮町)。湯船の種類が多い森の湯でなく、当日空の湯が男湯になっていましたので、ちょっとだけ息子は不満顔。でもお気に入りの「木霊の湯」では親子並びながら寝転んで、のんびりと過ごすことができリラックスできました。

信州飯田にて

2006年8月22日 旅行
信州飯田にて
合同庁舎に立ち寄った際に、隣の愛宕神社に参拝。ここは飯坂城跡とされているのですが、ぜひ桜の時期に来たいと思います。
天空の湯に浸かりたかったのですが、目的地は伊那谷道中隣接の満願成就の湯でしたので、ここはパスして、風越し子供の森公園へ(入園は無料)移動しました。平日で酷暑であったためか、人影はまばら。売店も休みで、動物さんもヤギさん以外は見あたりませんでした。息子は遊具を独り占めにできたし、ヤギさんに触れられてかなり満足。
今日は美術館は臨時休館でした。残念・・・。思えば、博物館実習を受けるうちに、学芸員を志した時期もありました。ちょうど4年生のときに同市の学芸員募集の話があり、採用試験を受けようか迷っていたのですが、結局研究室に残ることになりました。運命とは不思議なものです。
将来一度は飯田に転勤できるといいなあ。希望を出せば、通るかもしれないので、虎視眈々(笑)。

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