中津市にある奥平家の菩提寺・自性寺に墓参に出向いた折、昌猷公他の立派な墓地とは別に、寺の裏お囲い山寄りの墓域に「久嘉齋子孫累世墓」と刻まれた墓碑、隣に真新しい奥平家の墓石と墓碑を偶然見つけました。真新しい方の墓碑には、「初代奥平久嘉齋公重1602年没」とありました。
剣豪の奥山休賀齋(急加斉)の子孫の方でしょうか。休賀齋の墓も同墓地にあったのでしょうか・・・。今回時間がなく調査できませんでしたが、次回訪れた際に確認してみたいですね。
剣豪の奥山休賀齋(急加斉)の子孫の方でしょうか。休賀齋の墓も同墓地にあったのでしょうか・・・。今回時間がなく調査できませんでしたが、次回訪れた際に確認してみたいですね。
本日東三河は全般に雨でしたが、午後になって西三河方面に移動したところ、かなり晴れ間が広がってきていました。
西尾市は、ギネス認定のあの大茶会から1年が経過しました。日曜日から1週間、「西尾の家風おもてなし」というイベントが開催されています。井桁屋公園や寺院、お茶屋さんなど各地で茶会が催され、賑わっていました。
西尾市イコール抹茶というイメージがかなり強いのですが、市内今川町土井堀(西尾中学校グランド南側)が「今川氏発跡の地」であることは以外に知られていません。所用のついでに再訪し、発跡地の碑などを携帯で撮影してきました。
この付近が中世の今川荘の中心部であったようです。足利氏の流れをくむ吉良長氏(西条城)の次男・国氏がこの地を与えられ今川氏を名乗りましたが、矢作古川に因んだともいわれています。
南朝方の押さえ九州探題として活躍し、歌人としても有名な今川貞世(了俊)の墓がひっそりと建っています。讒言によって不遇のうちに一生を終えたようですが、なぜこの地に了俊の墓があるのでしょうか。もっとも墓は近世のものだろうと思いますが・・・。
西尾市は、ギネス認定のあの大茶会から1年が経過しました。日曜日から1週間、「西尾の家風おもてなし」というイベントが開催されています。井桁屋公園や寺院、お茶屋さんなど各地で茶会が催され、賑わっていました。
西尾市イコール抹茶というイメージがかなり強いのですが、市内今川町土井堀(西尾中学校グランド南側)が「今川氏発跡の地」であることは以外に知られていません。所用のついでに再訪し、発跡地の碑などを携帯で撮影してきました。
この付近が中世の今川荘の中心部であったようです。足利氏の流れをくむ吉良長氏(西条城)の次男・国氏がこの地を与えられ今川氏を名乗りましたが、矢作古川に因んだともいわれています。
南朝方の押さえ九州探題として活躍し、歌人としても有名な今川貞世(了俊)の墓がひっそりと建っています。讒言によって不遇のうちに一生を終えたようですが、なぜこの地に了俊の墓があるのでしょうか。もっとも墓は近世のものだろうと思いますが・・・。
(画像は、渡辺金太夫屋敷跡付近から望む鶴翁山・高天神城跡)
高天神城跡に出かけたくなったのには理由がありました。しばらく私の本棚に眠っていた津本陽著「新陰流小笠原長治」(新潮文庫)を読み返し、高天神の攻防、丸尾・本間兄弟の最期など読み進めるうちにいてもたってもおられなくなりました(笑)。
この作品には、三河作手や奥平の一族で剣豪の奥山休賀斎が登場するということで10年ほど前に何気に購入したのですが、城主小笠原長忠の弟であり、休賀斎の弟子として描かれる剣豪小笠原源信斎長治の生き様にひきこまれていきました。
高天神城跡に出かけたくなったのには理由がありました。しばらく私の本棚に眠っていた津本陽著「新陰流小笠原長治」(新潮文庫)を読み返し、高天神の攻防、丸尾・本間兄弟の最期など読み進めるうちにいてもたってもおられなくなりました(笑)。
この作品には、三河作手や奥平の一族で剣豪の奥山休賀斎が登場するということで10年ほど前に何気に購入したのですが、城主小笠原長忠の弟であり、休賀斎の弟子として描かれる剣豪小笠原源信斎長治の生き様にひきこまれていきました。
前橋市の大胡城跡を再訪した際に、浄土宗無量山月照院養林寺(前橋市堀越町)を訪ねました。上毛電鉄大胡駅から無料レンタサイクルを利用しました。
このお寺は鎌倉期の豪族大胡氏の館跡にあると言われています。
天正18年(1590)大胡2万石に入城した牧野康成は、鎌倉期の大胡太郎実秀の念仏修行の旧跡を知り、ここを牧野家の菩提寺としました。康成は100石を寺に寄進。寺は徳川家から仏具等に葵のご紋を使うことを許されました。康成は慶長14年大胡で亡くなり、同寺に埋葬されました。二代忠成は元和2年(1616)越後長峯に転封となりました。
牧野家廟所には成定、忠成などの墓もありますが、実際に埋葬されたのは康成と同夫人、忠成夫人です。3度の火災に遭っていますが、焼け残った山門は江戸初期の建築です。
わずかの滞在時間でしたが、奥様から先代住職が作られた由緒書などをいただきました。ありがとうございます。牛久保など三河方面からの参拝者も多く見られるとのことでした。
このお寺は鎌倉期の豪族大胡氏の館跡にあると言われています。
天正18年(1590)大胡2万石に入城した牧野康成は、鎌倉期の大胡太郎実秀の念仏修行の旧跡を知り、ここを牧野家の菩提寺としました。康成は100石を寺に寄進。寺は徳川家から仏具等に葵のご紋を使うことを許されました。康成は慶長14年大胡で亡くなり、同寺に埋葬されました。二代忠成は元和2年(1616)越後長峯に転封となりました。
牧野家廟所には成定、忠成などの墓もありますが、実際に埋葬されたのは康成と同夫人、忠成夫人です。3度の火災に遭っていますが、焼け残った山門は江戸初期の建築です。
わずかの滞在時間でしたが、奥様から先代住職が作られた由緒書などをいただきました。ありがとうございます。牛久保など三河方面からの参拝者も多く見られるとのことでした。
石田合戦と稲垣十郎左衛門
2007年2月19日 人物
(先回の続きから)
永禄5年6月2日の菅沼定盈勢の急襲により、稲垣半六郎氏俊らの戦死者を出した今川勢は野田城を捨てて敗走します。城の奪還を試みようとしましたが、それもかなわず、今度は野田城の東方に位置する石田の新城(新城古城)を攻め取ろうとします。
石田の新城の城主の菅沼定氏は、石田の伝寿山に物見を出して兵を忍ばせて攻め、菅沼十郎兵衛が鈴木甚平を、井道砦の菅沼伊賀守定勝が松井兵右衛門を討ち取ります。城兵も打って出て、稲垣十郎左衛門、倉川弥八郎などを討ち取りました。
一説では、この石田合戦が永禄4年の出来事であり、野田城の菅沼定盈を攻め開城させた勢いで石田の新城も攻めたという話もあります。
私の勉強不足で、稲垣十郎左衛門の系譜ははっきりとわかりませんが、おそらく今川勢のうち牛久保牧野方の稲垣氏一族であったと考えられます。石田合戦で討ち死にした十郎左衛門は、石田の黒坂の地に葬られます。その塚に、後年狐が住みついたという伝承があります。
いまも新城変電所の南西のアパート駐車場の一角に小さな塚があり、その上に天明年間建立の小さな祠が祀られており、狐塚と称されています。小さな赤鳥居とお狐様が印象的でした。
永禄5年6月2日の菅沼定盈勢の急襲により、稲垣半六郎氏俊らの戦死者を出した今川勢は野田城を捨てて敗走します。城の奪還を試みようとしましたが、それもかなわず、今度は野田城の東方に位置する石田の新城(新城古城)を攻め取ろうとします。
石田の新城の城主の菅沼定氏は、石田の伝寿山に物見を出して兵を忍ばせて攻め、菅沼十郎兵衛が鈴木甚平を、井道砦の菅沼伊賀守定勝が松井兵右衛門を討ち取ります。城兵も打って出て、稲垣十郎左衛門、倉川弥八郎などを討ち取りました。
一説では、この石田合戦が永禄4年の出来事であり、野田城の菅沼定盈を攻め開城させた勢いで石田の新城も攻めたという話もあります。
私の勉強不足で、稲垣十郎左衛門の系譜ははっきりとわかりませんが、おそらく今川勢のうち牛久保牧野方の稲垣氏一族であったと考えられます。石田合戦で討ち死にした十郎左衛門は、石田の黒坂の地に葬られます。その塚に、後年狐が住みついたという伝承があります。
いまも新城変電所の南西のアパート駐車場の一角に小さな塚があり、その上に天明年間建立の小さな祠が祀られており、狐塚と称されています。小さな赤鳥居とお狐様が印象的でした。
善応寺の連歌碑(蒲郡市元町)
2007年2月16日 人物
連歌師谷宗牧は、天文13年(1544)閏11月に岡崎を出発し、深溝(現在の幸田町)で連歌を行い、続いて西郡(現在の蒲郡市)の上ノ郷城の鵜殿氏を訪ね、JR蒲郡駅の北数分の場所にある浄土宗善応寺において、五井・深溝・竹谷松平氏も含めた千句連歌を行っています。
本堂手前には、発句「鐘の音も半ば雪のみやまかな」の歌碑が建てられています。
本堂手前には、発句「鐘の音も半ば雪のみやまかな」の歌碑が建てられています。
正祷山長存寺(蒲郡市上本町)
2007年2月16日 人物
上ノ郷城跡を訪れた際に鵜殿氏ゆかりの寺に立寄りました。3度目の再訪です。
当地の鵜殿氏は長将の時代に、宗家上ノ郷鵜殿(藤三郎を名乗る)と下ノ郷鵜殿(又三郎を名乗る)に分かれました。
上ノ郷の鵜殿長照と弟長忠は、永禄3年今川義元敗死後も今川に属して松平氏と対立し、永禄5年上ノ郷城落城に際し運命をともにしました。一方、松平氏に臣従した下ノ郷鵜殿氏は、初代の長存(天正12年2月17日没)、玄長、長龍、八郎三郎長信と続き、長信の時に家康の関東入りに従いました。
2代目の玄長の時に、父親の名をとり氏寺を長存寺と変えました。開山は文安2年(1445)。境内墓地には、鵜殿氏諸々之霊供養碑と並んで鵜殿長存の墓などがまつられています。
当地の鵜殿氏は長将の時代に、宗家上ノ郷鵜殿(藤三郎を名乗る)と下ノ郷鵜殿(又三郎を名乗る)に分かれました。
上ノ郷の鵜殿長照と弟長忠は、永禄3年今川義元敗死後も今川に属して松平氏と対立し、永禄5年上ノ郷城落城に際し運命をともにしました。一方、松平氏に臣従した下ノ郷鵜殿氏は、初代の長存(天正12年2月17日没)、玄長、長龍、八郎三郎長信と続き、長信の時に家康の関東入りに従いました。
2代目の玄長の時に、父親の名をとり氏寺を長存寺と変えました。開山は文安2年(1445)。境内墓地には、鵜殿氏諸々之霊供養碑と並んで鵜殿長存の墓などがまつられています。
山本勘助関係の展覧会の情報
2007年2月5日 人物 コメント (8)
豊川市の桜ヶ丘ミュージアム(地域文化広場内)で、3月から山本勘助関連のミニ展覧会が予定されているようですね。以下のとおりです。
牛久保城下の古図、牛久保密談記、浮世絵などの展示も予定されています。
開館時間や休館日などについては、間違いがあるといけませんので、直接会場などに問い合わせてご確認ください。
(画像は、展覧会イベントとは関係がありません)
ミニ展覧会「郷土に伝わる山本勘助の伝承展」
会期:平成19年3月3日(土)から5月6日(日)まで
休館日:月曜日
会場:1階常設展示室
時間:午前9時から午後5時まで
入場料:無料
問合せ先
桜ヶ丘ミュージアム
〒442-0064 愛知県豊川市桜ヶ丘町79の2
http://www.city.toyokawa.lg.jp/enjoy/kansuketen.html
牛久保城下の古図、牛久保密談記、浮世絵などの展示も予定されています。
開館時間や休館日などについては、間違いがあるといけませんので、直接会場などに問い合わせてご確認ください。
(画像は、展覧会イベントとは関係がありません)
ミニ展覧会「郷土に伝わる山本勘助の伝承展」
会期:平成19年3月3日(土)から5月6日(日)まで
休館日:月曜日
会場:1階常設展示室
時間:午前9時から午後5時まで
入場料:無料
問合せ先
桜ヶ丘ミュージアム
〒442-0064 愛知県豊川市桜ヶ丘町79の2
http://www.city.toyokawa.lg.jp/enjoy/kansuketen.html
宝飯郡御津町にある浄土宗大恩寺はもと大運寺と称され、松平氏に所縁の深い寺でした。松平家に大恩のある寺ということで大恩寺と改められました。牛久保牧野氏の菩提寺でもあり、かつて存在した念仏堂(平成6年焼失)は天文22年(1553)に牧野出羽守保成らが造営したものでした。
県指定になっている山門は大垣藩2代藩主戸田采女正氏信が寛文12年(1672)に建立したものです。氏信の正室は、越後長岡藩初代藩主牧野忠成の娘(嶺秀院)。
戸田氏信は天和元年(1681)没、嫡子氏西は貞享元年(1684)没。牛久保の牧野成定公(嶺秀院の曾祖父)の墓所を建立したのが1684年ですから、夫と息子を立て続けに失った嶺秀院に何か思うところがあったのでしょうか。
牧野一族の墓所に並んで嶺秀院の墓石も建てられています。また
左一つおいて並んでいる牧野家墓所の立派な五輪塔は、俗名牧野民部丞康成、没年が永禄9年と記されていたように記憶しています。没年からすると成定公の墓石とも思われますが、若干の疑問も残ります。牧野氏の系譜は疑問点が多く、悩ましい・・・。再訪して確認してみたいと思います。
県指定になっている山門は大垣藩2代藩主戸田采女正氏信が寛文12年(1672)に建立したものです。氏信の正室は、越後長岡藩初代藩主牧野忠成の娘(嶺秀院)。
戸田氏信は天和元年(1681)没、嫡子氏西は貞享元年(1684)没。牛久保の牧野成定公(嶺秀院の曾祖父)の墓所を建立したのが1684年ですから、夫と息子を立て続けに失った嶺秀院に何か思うところがあったのでしょうか。
牧野一族の墓所に並んで嶺秀院の墓石も建てられています。また
左一つおいて並んでいる牧野家墓所の立派な五輪塔は、俗名牧野民部丞康成、没年が永禄9年と記されていたように記憶しています。没年からすると成定公の墓石とも思われますが、若干の疑問も残ります。牧野氏の系譜は疑問点が多く、悩ましい・・・。再訪して確認してみたいと思います。
年明けの仕事のヤマが落ち着き、ほんの少しだけ一息入れているところです。
次回のNHK大河ドラマ「風林火山」第3話(1月21日放送)では、本編終了後、牛久保の長谷寺についてちょっとした紹介があるようですね。全国ネットで地元が紹介されるというのは、なんだかドキドキしてきますね。勘助の遺髪塚や摩利支天像の映像も見られるのでしょうか。別枠でゆかりの地を訪ねるというような特集を組んで欲しいですね。リポートは主役の方にお願いして・・・。やはり無理でしょうか(笑)。
次回のNHK大河ドラマ「風林火山」第3話(1月21日放送)では、本編終了後、牛久保の長谷寺についてちょっとした紹介があるようですね。全国ネットで地元が紹介されるというのは、なんだかドキドキしてきますね。勘助の遺髪塚や摩利支天像の映像も見られるのでしょうか。別枠でゆかりの地を訪ねるというような特集を組んで欲しいですね。リポートは主役の方にお願いして・・・。やはり無理でしょうか(笑)。
最近戦国時代の菅沼・奥平氏関係の資料を整理しつつあります。史跡の再訪についても少しずつ始めました。
弘治年間は奥三河の奥平氏、菅沼氏にとって、激動期の幕開けでした。作手の奥平貞勝と田峯の菅沼定継が今川氏から離反し、尾張の織田氏になびきました。
弘治2年(1556)2月奥平氏は今川方の秦梨城(岡崎市)を攻めるなどしています。同年5月布里(旧鳳来町布里栗峯)において、定継(田峯城主)と袂を分かって今川に残った弟、定直(布里城主)、定氏(大野城主)、定仙(井代城主)が戦いましたが、弟たちは敗退。その後同年8月に入ると、今川方の菅沼一族、定村(野田城主)、新三左衛門定貴(宇利城主)、半五郎定満(山吉田城主)が雨山合戦(旧額田町)で討ち死。布里においては、定直が今川軍の助勢を得て巻き返しを図り、定継、左衛門次郎定俊、定村の弟・三右衛門定圓、傳一郎定自らと戦いました。結果、定継方は敗退。8月21日布里黒ヌタで討ち死しました。定圓は鳳来寺山麓椿坂、定自は与良木峠で討ち取られています。
(画像は布里城跡 平成14年撮影)
弘治年間は奥三河の奥平氏、菅沼氏にとって、激動期の幕開けでした。作手の奥平貞勝と田峯の菅沼定継が今川氏から離反し、尾張の織田氏になびきました。
弘治2年(1556)2月奥平氏は今川方の秦梨城(岡崎市)を攻めるなどしています。同年5月布里(旧鳳来町布里栗峯)において、定継(田峯城主)と袂を分かって今川に残った弟、定直(布里城主)、定氏(大野城主)、定仙(井代城主)が戦いましたが、弟たちは敗退。その後同年8月に入ると、今川方の菅沼一族、定村(野田城主)、新三左衛門定貴(宇利城主)、半五郎定満(山吉田城主)が雨山合戦(旧額田町)で討ち死。布里においては、定直が今川軍の助勢を得て巻き返しを図り、定継、左衛門次郎定俊、定村の弟・三右衛門定圓、傳一郎定自らと戦いました。結果、定継方は敗退。8月21日布里黒ヌタで討ち死しました。定圓は鳳来寺山麓椿坂、定自は与良木峠で討ち取られています。
(画像は布里城跡 平成14年撮影)
山本勘助に因んだおこし
2006年12月24日 人物
和菓子のなかでも、おこしは個人的には余り得意な食べ物ではないんですが、山本勘助の遺髪塚がある武運山長谷寺(ちょうこくじ)から程近い場所、豊川市南大通3丁目にある松寿園さんの「かんすけおこし」を、息子はなかなか美味しいと言っていました。息子は、表面パサパサ系や餡子系はだめだったはずなんですが、いつから嗜好が変わったのかな・・・?
かんすけおこしは文字通り、山本勘助に因んだおこし(和菓子)です。いただいた由来書には、昭和3年に初代の方が創業に際して、「勘助の遺徳を偲んで、広く世間に名を残さんと念願して」製作されたとのことです。おこしの表面には、左三つ巴紋があしらってあります。
かんすけおこしは文字通り、山本勘助に因んだおこし(和菓子)です。いただいた由来書には、昭和3年に初代の方が創業に際して、「勘助の遺徳を偲んで、広く世間に名を残さんと念願して」製作されたとのことです。おこしの表面には、左三つ巴紋があしらってあります。
御所山誓願寺(豊田市上郷町御所名残)
2006年12月7日 人物 コメント (2)
(12月4日の散策の続きです。)
御所山誓願寺は、14世紀に創建された禅宗のお寺ですが、天文14年(1545)浄土宗に改められました。上野(上村)城主であった戸田弾正左衛門宗光の念持仏である観音さまが寄進されています。
寺の墓地にある納骨塔の西側に戸田宗光、宗光の父・実興、宗光の嫡子・憲光、氏一などの墓石が集められています。区画整理などにより墓所は転々としました。新しい墓所を示す碑があるので、それと確認できましたが、片隅に追いやられているようで、少し気の毒な気がしました。寺を訪ねた時間は午後5時近くであったので、お寺に尋ねる時間もありませんでした。どの墓石が誰のものなのか確認できませんでした。それともわかっていないのでしょうか。
上野城主戸田宗光は、その後文明7年(1475)大津に進出し(豊橋市老津町の高縄城)、さらに数年後には田原に築城して勢力を拡大しました。
御所山誓願寺は、14世紀に創建された禅宗のお寺ですが、天文14年(1545)浄土宗に改められました。上野(上村)城主であった戸田弾正左衛門宗光の念持仏である観音さまが寄進されています。
寺の墓地にある納骨塔の西側に戸田宗光、宗光の父・実興、宗光の嫡子・憲光、氏一などの墓石が集められています。区画整理などにより墓所は転々としました。新しい墓所を示す碑があるので、それと確認できましたが、片隅に追いやられているようで、少し気の毒な気がしました。寺を訪ねた時間は午後5時近くであったので、お寺に尋ねる時間もありませんでした。どの墓石が誰のものなのか確認できませんでした。それともわかっていないのでしょうか。
上野城主戸田宗光は、その後文明7年(1475)大津に進出し(豊橋市老津町の高縄城)、さらに数年後には田原に築城して勢力を拡大しました。
新城市川路にて(山本勘蔵信供墓)
2006年11月28日 人物
新城に出向く用事があり、JR三河東郷駅前で一服しました。私が中学2年だった当時、設楽原を友人と訪ね歩いた際にお年寄りが昔は「かわじの駅」と言っていたのだと話してくれたのをふと思い出しました。新駅舎もまもなく完成なのかな。駅前のお店で買ったぽたぽた餅が、昼抜きで講義していた私の空腹を満たしてくれました。
既に午後4時を回っていましたが、30分ほどの空き時間があったので、駅前を南下して勝楽寺の脇を抜けて、2年ぶりに山本勘蔵信供の墓(新城市川路)をお参りしました。傍らに密やかに咲く椿が印象的でした。長閑な田園風景の中でしばし合掌。
山本勘蔵信供は、甲州武田の山本勘助嫡男と伝わる人物で、設楽原合戦の際に徳川方の渡辺半蔵守綱に首を討たれた(享年20歳)という話も伝わっています。戦死地といわれる大海地区には碑が建てられています。
昔は山本勘介信供之墓と刻まれた墓碑があったのですが・・・。
既に午後4時を回っていましたが、30分ほどの空き時間があったので、駅前を南下して勝楽寺の脇を抜けて、2年ぶりに山本勘蔵信供の墓(新城市川路)をお参りしました。傍らに密やかに咲く椿が印象的でした。長閑な田園風景の中でしばし合掌。
山本勘蔵信供は、甲州武田の山本勘助嫡男と伝わる人物で、設楽原合戦の際に徳川方の渡辺半蔵守綱に首を討たれた(享年20歳)という話も伝わっています。戦死地といわれる大海地区には碑が建てられています。
昔は山本勘介信供之墓と刻まれた墓碑があったのですが・・・。
茂松城、熊子砦と牧主計
2006年11月25日 人物 コメント (4)
茂松城(宝飯郡御津町広石)は細川兵部少輔勝久が在城し、文明年間頃に今川義忠に滅ぼされ、後年牧野古白の六男であった牧主計が入城したと伝わっています。牧主計という人物は、桶狭間の戦いに従軍し、戦死したと伝わっています。
ところで、現在の西尾市にある久麻久神社(八ツ面山の方ではありません)南側にあったと伝わる「熊子砦(熊味町山畦)」は神主・牧氏の館跡だといわれています。同じ熊味町内にある熊子観音寺は、明治の神仏分離令以前は久麻久神社境内にあったといいます。5年ほど前にこの地を訪ねた際に知ったことですが、熊子観世音菩薩略縁起によると、源氏の末裔である牧佐治兵衛忠信の子・牧主計忠治は、元和5年(1619)、奈良興福寺から観音菩薩を譲り受けてこの堂を建立した人物であるといいます。また忠治は熊子大明神の神職でありますが、茂松城主であるとし、天正12年(1584)の小牧の戦いに従軍して武功をあげ、大坂の陣でも奮戦したとあります。その後、本多忠政の臣下になったのか、姫路に国替えになった際に同行したという内容の記述があります。
茂松城主であった牧主計が牧野古白の子供であったということは牧野氏の系図などからの確証は得られません。熊子砦の牧一族が、桶狭間で戦死した茂松城主・牧主計の子孫であったかどうかについても明確な回答は得られません。三河一向一揆の際に家康に味方した牧主計吉元という人物もいたようですので、今後関係を調べていきたいと思います。
また一向一揆の際に家康に対抗して滅びた荒川城(八ツ面古城)の荒川甲斐守義広は、八ツ面山の大宝天王(現在の八ツ面山男山の久麻久神社)を敬っていましたので、非常に近接した地域にあった荒川氏と牧氏の関わりがどうであったのかこちらも知りたいところです。
ところで、現在の西尾市にある久麻久神社(八ツ面山の方ではありません)南側にあったと伝わる「熊子砦(熊味町山畦)」は神主・牧氏の館跡だといわれています。同じ熊味町内にある熊子観音寺は、明治の神仏分離令以前は久麻久神社境内にあったといいます。5年ほど前にこの地を訪ねた際に知ったことですが、熊子観世音菩薩略縁起によると、源氏の末裔である牧佐治兵衛忠信の子・牧主計忠治は、元和5年(1619)、奈良興福寺から観音菩薩を譲り受けてこの堂を建立した人物であるといいます。また忠治は熊子大明神の神職でありますが、茂松城主であるとし、天正12年(1584)の小牧の戦いに従軍して武功をあげ、大坂の陣でも奮戦したとあります。その後、本多忠政の臣下になったのか、姫路に国替えになった際に同行したという内容の記述があります。
茂松城主であった牧主計が牧野古白の子供であったということは牧野氏の系図などからの確証は得られません。熊子砦の牧一族が、桶狭間で戦死した茂松城主・牧主計の子孫であったかどうかについても明確な回答は得られません。三河一向一揆の際に家康に味方した牧主計吉元という人物もいたようですので、今後関係を調べていきたいと思います。
また一向一揆の際に家康に対抗して滅びた荒川城(八ツ面古城)の荒川甲斐守義広は、八ツ面山の大宝天王(現在の八ツ面山男山の久麻久神社)を敬っていましたので、非常に近接した地域にあった荒川氏と牧氏の関わりがどうであったのかこちらも知りたいところです。
展覧会の情報です。 (画像は雨山合戦跡碑 2004/11)
◇岡崎市・額田町合併記念「額田−その歴史と文化−」
(岡崎市美術博物館 マインドスケープ・ミュージアム)
■会期 12/2〜2/4
今年1月1日額田町が岡崎市と合併しました。私としては、兜 跋毘沙門天立像、華蔵院の「打敷」などの展示が楽しみです。
奥平貞能の二男・仙丸君は武田方の人質となっていましたが、 裏切りに対する犠牲となりました。今回、処刑された仙丸君の 亡骸を包んだ血染めの打敷が展示されるようです。
新行先生の講演会や日近城、滝山城、雨山砦なども含むバスツ アーの企画もあるようですね。
徳川四天王展を見逃してしまったので、今回はぜひ行きたいで す。
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/ka321.htm
◇岡崎市・額田町合併記念「額田−その歴史と文化−」
(岡崎市美術博物館 マインドスケープ・ミュージアム)
■会期 12/2〜2/4
今年1月1日額田町が岡崎市と合併しました。私としては、兜 跋毘沙門天立像、華蔵院の「打敷」などの展示が楽しみです。
奥平貞能の二男・仙丸君は武田方の人質となっていましたが、 裏切りに対する犠牲となりました。今回、処刑された仙丸君の 亡骸を包んだ血染めの打敷が展示されるようです。
新行先生の講演会や日近城、滝山城、雨山砦なども含むバスツ アーの企画もあるようですね。
徳川四天王展を見逃してしまったので、今回はぜひ行きたいで す。
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/ka321.htm
連歌師と東三河の領主
2006年11月10日 人物 コメント (2)
連歌師谷宗牧は、天文13年(1544)9月から京都から東国方面を旅した際の「東国紀行」を著したことは有名です。同年閏11月に岡崎を出発し、深溝(現在の幸田町)で連歌を行い、続いて西郡(現在の蒲郡)の鵜殿氏を訪ね、五井・深溝・竹谷松平氏も含めた千句連歌を行っています。
その後、鵜殿氏らに送られて、大塚(現在の蒲郡、中島城)の岩瀬式部(氏俊、雅楽助の父親)のもとに到着。ここで牛久保の牧野平四郎の出迎えと交替。続いて豊川の寺で、牧野伝三郎(成元、牛久保城主出羽守保成の子供)をはじめとした牧野一族の接待を受けます。そして牧野平三郎、平四郎らに富永(新城市)近くまで送られ、織部入道(菅沼定則,入道不春)を訪ねます。そこで新城である野田城を見ています。また息子の新八郎定村をはじめとした息子の器量を評価しています。この地においても宗牧はかなりの歓待を受けたようです。
蛇足ですが、天文10年代に入ったころは、織田・今川の争いの中にあり、田原の戸田氏は松平氏とも婚姻関係を結びながら、今川に心寄せるように見せていました。やがて織田方になびいた吉田城の戸田氏は討伐されます。さらに天文16年(1547)の竹千代奪取とつながっていきます。
野田菅沼氏についていえば、弘治2年(1556)、菅沼定則の子供たち定村を初めとして、織田(信長)・今川(義元)に分かれて戦い、多くが亡くなっています。一族の生き残りをかけて、心ならずも分かれて戦ったのでしょうか。
敵味方の中を自由に往来した連歌師宗牧の目には、大きな勢力の狭間で苦闘していた領主の姿はどのように映っていたのでしょうか。ちなみに宗牧は天文14年(1545)に死去しています。
その後、鵜殿氏らに送られて、大塚(現在の蒲郡、中島城)の岩瀬式部(氏俊、雅楽助の父親)のもとに到着。ここで牛久保の牧野平四郎の出迎えと交替。続いて豊川の寺で、牧野伝三郎(成元、牛久保城主出羽守保成の子供)をはじめとした牧野一族の接待を受けます。そして牧野平三郎、平四郎らに富永(新城市)近くまで送られ、織部入道(菅沼定則,入道不春)を訪ねます。そこで新城である野田城を見ています。また息子の新八郎定村をはじめとした息子の器量を評価しています。この地においても宗牧はかなりの歓待を受けたようです。
蛇足ですが、天文10年代に入ったころは、織田・今川の争いの中にあり、田原の戸田氏は松平氏とも婚姻関係を結びながら、今川に心寄せるように見せていました。やがて織田方になびいた吉田城の戸田氏は討伐されます。さらに天文16年(1547)の竹千代奪取とつながっていきます。
野田菅沼氏についていえば、弘治2年(1556)、菅沼定則の子供たち定村を初めとして、織田(信長)・今川(義元)に分かれて戦い、多くが亡くなっています。一族の生き残りをかけて、心ならずも分かれて戦ったのでしょうか。
敵味方の中を自由に往来した連歌師宗牧の目には、大きな勢力の狭間で苦闘していた領主の姿はどのように映っていたのでしょうか。ちなみに宗牧は天文14年(1545)に死去しています。
山本勘助の墓(永井城跡)
2006年10月22日 人物 コメント (2)
岡崎・西尾方面に所用があったので、デジカメに収めていなかった永井城跡(岡崎市福岡町字シケ畑)に立寄りました。10数年ぶりだと、年のせいもあってか、まともにたどり着けません。
雨も降ってきたし、時間もないので、ここは地元の方に聞くしかない!と、飛び込みで駆け込んだ地区の公民館に、たまたま城跡に住んでおられる13代目ご当主がいらっしゃって、「案内してあげるわ。わしのあとに着いておいでん。」と優しいお言葉♪
お忙しい中、わざわざご案内いただき、しかもご丁寧に城跡のいわれを説明いただき、感激することしきりでした。(涙)
城跡の遺構は見当たりません。畑地一体が城跡だといわれていますが、道路で分断されています。城跡の碑と山本勘助の墓と伝わる五輪塔が向かい合う形で建てられています。
城主は山本氏と伝えられ、数十メートル四方の居館だったようです。それにしてもなぜここに勘助の墓があるのか。城主山本氏との関係は・・・?。謎です。
平成12年に、風化甚だしい五輪塔の残欠を生かして五輪を積み上げ、「山本勘助之墓」と刻んだ石碑とともに雨よけの屋根までも作られた御当主の熱意にはただただ頭が下がります。
来年の大河ドラマの影響か、遠方から訪ねていらっしゃる方も結構いるようです。
雨も降ってきたし、時間もないので、ここは地元の方に聞くしかない!と、飛び込みで駆け込んだ地区の公民館に、たまたま城跡に住んでおられる13代目ご当主がいらっしゃって、「案内してあげるわ。わしのあとに着いておいでん。」と優しいお言葉♪
お忙しい中、わざわざご案内いただき、しかもご丁寧に城跡のいわれを説明いただき、感激することしきりでした。(涙)
城跡の遺構は見当たりません。畑地一体が城跡だといわれていますが、道路で分断されています。城跡の碑と山本勘助の墓と伝わる五輪塔が向かい合う形で建てられています。
城主は山本氏と伝えられ、数十メートル四方の居館だったようです。それにしてもなぜここに勘助の墓があるのか。城主山本氏との関係は・・・?。謎です。
平成12年に、風化甚だしい五輪塔の残欠を生かして五輪を積み上げ、「山本勘助之墓」と刻んだ石碑とともに雨よけの屋根までも作られた御当主の熱意にはただただ頭が下がります。
来年の大河ドラマの影響か、遠方から訪ねていらっしゃる方も結構いるようです。
曹洞宗大宝山西明寺は一条天皇の正暦年間(990年〜995年)に三河国司となった大江定基が愛妾の力寿姫と死別し無常を感じて、仏門に入り寂照と改め、大宝山の東の山麓に草庵を結び六光寺と名づけ、天台宗の寺としたのが始まりとされています。
鎌倉期に臨済宗最明寺と改められます。駿河の今川義元が桶狭間で戦死すると、東三河では松平氏と今川氏との戦闘が繰り広げられるようになります。吉田城開城の前年、永禄7年(1564)大宝寺の西山麓で繰り広げられた鷺坂合戦の際に、最明寺四世快翁竜喜和尚が粥を炊いて松平の陣営に送り届けたといいます。勝利を収めた家康は最明寺で阿弥陀如来像に武運祈願したそうです。このことを徳として、慶長8年(1603)に家康は伏見城に六世伝芝全授和尚を招き、寺領20石の朱印状を渡し、「西」の字を与え、西明寺に改めたといいます。
(以上西明寺案内パンフレット参考)
朱塗りの風格ある山門と土塀の葵の紋が目に入ります。山門左手には樹齢400年のもっこく(市指定天然記念物)が枝を広げています。入母屋造りの本堂裏手には回遊式の大庭園があり、その規模と美しさに見とれてしまいます。足元はきれいな杉苔に覆われています。しばし静寂の中に立ち止まり時を忘れてくつろぎます。
鎌倉期に臨済宗最明寺と改められます。駿河の今川義元が桶狭間で戦死すると、東三河では松平氏と今川氏との戦闘が繰り広げられるようになります。吉田城開城の前年、永禄7年(1564)大宝寺の西山麓で繰り広げられた鷺坂合戦の際に、最明寺四世快翁竜喜和尚が粥を炊いて松平の陣営に送り届けたといいます。勝利を収めた家康は最明寺で阿弥陀如来像に武運祈願したそうです。このことを徳として、慶長8年(1603)に家康は伏見城に六世伝芝全授和尚を招き、寺領20石の朱印状を渡し、「西」の字を与え、西明寺に改めたといいます。
(以上西明寺案内パンフレット参考)
朱塗りの風格ある山門と土塀の葵の紋が目に入ります。山門左手には樹齢400年のもっこく(市指定天然記念物)が枝を広げています。入母屋造りの本堂裏手には回遊式の大庭園があり、その規模と美しさに見とれてしまいます。足元はきれいな杉苔に覆われています。しばし静寂の中に立ち止まり時を忘れてくつろぎます。
豊川市八幡町にある大宝山西明寺の西側(幼稚園北西)の墓地の一画には、山本勘助の墓碑がまつられています。牛久保の長谷寺の遺髪塚はよく知られていますが、こちらは案内表示などもなく、ひっそりとした静寂の中にあります。
この地に勘助の墓が建立された由来は、案内パンフレットによると、「草壁(日下部)村の、勘助の兄の子孫が追善供養のため建てたと伝えられている」とあります。日下部村は、現在の豊川市豊津町(旧宝飯郡一宮町豊津)に当たります。お寺でも同様のお話をしていただきました。御子孫が今でも豊津に住んでおられるとのことでした。
勘助の墓石は、碑面の風化がだいぶ進んでいますが、表面中央には、「鐵岩道一居士」、右側には「永禄四年九月十日」、左側には「俗名山本勘助晴幸墓」、また左側面には「世称山本道鬼」と読み取れます。裏面には勘助の事跡が触れられていたように思います。裏面については、もう一度きちんと読んでみたいと思います。
この地に勘助の墓が建立された由来は、案内パンフレットによると、「草壁(日下部)村の、勘助の兄の子孫が追善供養のため建てたと伝えられている」とあります。日下部村は、現在の豊川市豊津町(旧宝飯郡一宮町豊津)に当たります。お寺でも同様のお話をしていただきました。御子孫が今でも豊津に住んでおられるとのことでした。
勘助の墓石は、碑面の風化がだいぶ進んでいますが、表面中央には、「鐵岩道一居士」、右側には「永禄四年九月十日」、左側には「俗名山本勘助晴幸墓」、また左側面には「世称山本道鬼」と読み取れます。裏面には勘助の事跡が触れられていたように思います。裏面については、もう一度きちんと読んでみたいと思います。
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