大荒れの津久井城(神奈川県相模原)
大荒れの津久井城(神奈川県相模原)
大荒れの津久井城(神奈川県相模原)
午前中から降ったり止んだりの不安定な天気。昼休みを利用して甲斐との国境に近い境目の山城、津久井城を散策してきました。かなり久々の訪城。

JR&京王相模原線橋本駅からバスの便もよく、歴史公園として整備され案内所もしっかりしていますから、家族連れのハイキングも楽しめますね。

でも当日は、大粒の雹が降るわ雷鳴が鳴り響くわで散々でした。山頂に向かう男坂は泥の川状態。雨男健在なのでした。

しかし、主郭に着いたころにはピーカンに晴れ上がり、今度は気温上昇のため生い茂った草叢がいきる(三河弁だろうか?)。
整備されているとはいえ、藪漕ぎが必要な場面もありましたが、竪堀、石垣、宝ヶ池などを散策し、北条方の無骨な山城を堪能できました。

下山途中、地元のハイカーの方の案内で山麓からの眺望を楽しみました。

昼休みに登城
本日は早朝からクルマを飛ばして出張しました。1時間以上も話をするのはさすがに疲れます。昼の休憩中に馴染みの方から「くらさんお疲れ、久々に善福寺(小学生の頃、親戚の家に出かけた帰りにこのお寺さんの山門で仁王様に出会い、何となくトラウマになっています、笑)の裏山に登りませんか?」と誘われました。「今日は背広ですからね・・・」と丁重にお断り申し上げたところ、「かまいませんよ、すぐ行きましょう♪」ということになってしまい、汗をかきかき、マムシとヤマカガシに遭遇しながらす徒歩で登りました。クルマで十分行けるのに・・・。まだまだ残暑が厳しいですが、物見櫓の上で風に当たると、ほっとしますね。

城山に立つ

2007年8月19日 城跡散策
城山に立つ
渥美半島、そして知多半島。三河湾の海原を臨み、この武家の一族は何を想っていたのでしょうか・・・。
伊豆半島の水軍所縁の城跡を巡ったことがありますが、三河も含め水軍の頭領であった間宮一族の史跡を撮りなおしをかねてじっくり回ってみたいと思いました。
旧江尻宿界隈
さわやかウォーキングの帰りに、JR東海道線清水駅で下車し、まず静岡市清水区にある江浄寺に立ち寄りました。紺屋町と伝馬町に挟まれた地域にあるこの寺の山門をくぐると、左手に岡崎信康公の苔むした遺髪塚(五輪塔)があり、お参りしてきました。

旧東海道53次18番目の宿場である江尻宿の町並みの中心は江浄寺の西方、銀座通にあったようですが、面影はほとんど残っていません。
江尻宿の西側に位置していた巴川に沿って歩き出すと、まもなくユニークな河童像がある稚児橋に差しかかりました。江尻小学校側に道を辿ると、小学校に隣接して魚町稲荷神社があります。永禄11年(1568)12月駿河に侵攻した武田信玄は翌年現在の江尻小学校の敷地内に江尻城(小芝城)を築きました。小学校あたりは本丸であったようです。城将であった山縣県昌景亡き後、穴山信君が城を大改築しました。その際にこの地に社殿を造営したと言われます(説明板あり)。その穴山氏も天正10年(1582)家康に降伏してしまうわけですが・・・。
小芝町には、今ひとつ私が気にかかっていた社があります。小芝八幡宮と呼ばれる社で、江尻宿の産土神として敬われてきました。この八幡様は遡ること嵯峨天皇御世、弘仁2年(811)の創建といわれ、信玄が江尻城を築くにあたり、廃れていた祠を城内に移して、鎮守の神として祀っていたものですが、慶長6年(1601)は廃城後現在地(城の三ノ丸にあたります)に移されました。城の遺構は残っていないので、地元の方から「天守閣も石垣もない城跡なのに、よく何回も来るね〜」と褒められ?ました(笑)。

なお、復元図入りの説明板(平成7年作成)が江尻小学校の敷地内に小芝城ノ碑とともに建っています。小学校の東端のフェンス前には「町名の由来二の丸町」という説明板があります。また小芝八幡宮の鳥居をくぐった左手にも復元図入りの説明板(昭和57年作成)があります。
沼津・蒲原(静岡市)散策
頭部を負傷してから頭痛と吐き気がありましたが、1時間ほどの休憩で何とか復帰。予定では身延線に乗って学生時代以来の甲斐河内めぐりをしようと企んでいましたが、時間的なロスが出てしまい、駅から近場の城めぐりに予定を変更しました。
まずは東海道線に乗り換え東進し、沼津駅で下車。大手町を中心に沼津城跡本丸碑や石垣を見学。やはり遺構がないと、どうも消化不良になってしまい、久々に山中城へ!・・・と食指が動きましたが、またまたここで頭痛が出てしまい、休憩。
午後3時過ぎになって、少々回復したので急遽駅から程近い場所にある蒲原宿跡を見学でもしようと思い、再び東海道線で西進し新蒲原駅で下車しました。蒲原宿跡の散策は初めてです。町並みを歩いていくうちに一人の年輩のご婦人に声をかけられ、江戸期に旅籠として使われていたご自分の邸宅内をご親切に案内していただきました。耐震用に改築されていましたが、なかなかの趣のある建物で満足。俄然散策する元気も出てきました♪
そこで裏山にあたる蒲原城址へのルートをお聞きすることに。まだ時間はあるし、1城くらいは遺構のある城跡を見ておきたいと思い、「建物も何もないですし、草もかなり茂っていますよ。」というご婦人のお言葉を背に、配水タンクのある坂道を登って、蒲原城址へ移動しました。トイレや水飲み場のある真新しい善福寺公園で小休止し、濡れたタオルで頭部を冷やしました。切り傷もありますが、思ったよりかなり腫れてました。帽子が被れないはずです(笑)。
向かいにある城址入口の看板を横目に見て民家の右手の登山道に入るとすぐ右手に説明板と鳥瞰図などが建っていました。社のある主郭や櫓やトイレ施設のある善福寺曲輪まで短時間で到達できます。善福寺曲輪からの下界の眺めは頭痛でボーっとしていた気分を爽快にしてくれました。
しかし、やはり風薫る五月ともなると、木々が青々としてきて清々しいのですが、下草もかなりのもの。冬期か、桜の季節に再訪したほうが良さそうです。桜の名所御殿山や狼煙場散策もしてみたいし・・・。今回は善福寺曲輪周辺の堀切や土塁だけを見ただけでそれ以上の深追いはやめ、約30分の散策を終えて下山しました。

さて、もう少しだけ蒲原宿跡を散策。宿場の中心は、元禄期の津波で蒲原御殿跡に移転しているんですね。家康が甲斐攻めの帰路、信長を接待したといわれるお茶屋が後に整備されて将軍家が御殿として利用していたようです。案内板と石碑から知りました。
そういえば、今年は大御所四百年祭(大御所としての駿府入城から四百年ということです)ですね。いろいろなイベントがあるようですから、静岡にも足繁く出かけてみたいです♪(無理か・・・)

↓大御所四百年祭公式HP
http://www.oogosho400.jp/index.htm
太尾山城跡にて
展望の利く山城めぐりは、気分転換にとてもいいですね〜。
江北と江南の境目の城である太尾山城(米原市は、京極氏、六角氏、浅井氏の争奪の舞台となり、元亀年間に織田氏により落城しました。登山道入口や曲輪、堀ごとに案内表示や説明板があり、よく整備されています。地元の方の保存努力に頭が下がります。

太尾山城への訪城は、今回地元の方から「青岸寺前の登り口から入った方が楽だよ」というアドバイスに従って、盗人岩のある展望所(標高約220m)から北主郭〜南主郭を巡り、南主郭の北側にある堀切から湯谷神社前に出るコースを軽めに歩いてみました。展望所までは約12〜13分かかりました。右手前方にJR米原駅が、その先琵琶湖岸にはエクシブ琵琶湖の建物が見えます。また左手前方向には標高約160mの磯山が望めます。
米原駅のアナウンスが風に乗って良く聞こえていました。盗人岩周辺ではくまん蜂がしきりにからんでくるので、思わず逃げ出しました(笑)。
この日は好天に恵まれ、風も心地よく最高の気分でした。足取りも軽く、続いて鎌刃城を目指しました。

(画像は、盗人岩展望所付近から磯漁港方面を望んだものです。湖面が不鮮明ですいません)
青空フリーパスで米原へ
JR東海には土曜日・休日及び年末年始のみ利用できる2つの1日フリーパスがありますが、本日は家族から特別許可を得て、青空フリーパス(おとな2500円)を利用し米原に行ってきました。ちなみに青空フリーパスののフリー区間最西端は米原駅です。豊橋からならば、JR東海道線を利用し片道2520円(所要時間は特別快速で約2時間)ということで運賃は半額以下ということになります。まあ青春18きっぷにはかないませんが・・・。
本当は時間があれば旧街道目的で醒ヶ井や柏原にも立寄りたかったのですが、日が暮れる前に帰宅することが条件で単独行動を許されたのでやむを得ませんでした(笑)。
本日はのんびり米原市の山城めぐりを楽しんできました。といっても時間の制約もあって標高が高い北部の山城は今回はパスしました。7年前の秋口に入山できなかった太尾山城のリベンジと発掘調査後の鎌刃城再訪がメインでした。
以前はマイカー使用でしたが、今回は米原駅からすべて徒歩でした。太尾山城は駅前登山で所要時間は1時間以内、非常に楽チンですが、太尾山下山後(AM11:40)、警察署〜米原高校〜番場の経路(国道8〜県道240)は少々遠く感じました。鎌刃下山後、駅に引き返す際に足がつってしまいました。ここはバスもほとんど通ってませんし・・。それにしても歳はとりたくないものです(笑)。
米原駅到着(PM3:20)。この時点で「帰れコール」が鳴り響いてしまい、今日の散策はTHE ENDとなりました。
熊との遭遇は過去にありましたが、一人の山城訪城は少々心細いですね。今日の鎌刃では2度獣に遭遇しました。幸い熊ではありませんでしたが、ガサガサという音に続いて地を駆ける獣の足音がするとやはり背筋がゾクっときますね。

(画像は、鎌刃城北端部曲輪虎口)
北新波砦址(高崎市北新波町)
高崎市内で箕輪、保渡田などの城跡を散策した後、ひたすら南西方向に足を運び、浜川町周辺の城館址を訪ねました。来迎寺などを経て、最後の目的地である北新波町の北新波砦史跡公園に到着しました。
ここまで背広姿・革靴で15kmほど歩いていましたので、疲れもピークに達していました。浜川町交差点を前橋安中富岡線に沿って南西に折れ、400mほど歩くと長野小前バス停があり、そこを北上すると満勝寺が見えます。その北側に約70m四方を土塁と堀で囲んだ中世の館址である北新波砦址(群馬県指定)が存在します。15世紀後半から16世紀半ばにかけて使用された館跡で、長野氏関連のものではないかと考えられています。なお満勝寺も館跡と言われています。
航空写真や付近の関連城館址の説明板などが設置されています。南側の張り出し部分が特徴でしょうか。航空写真に加えて復元図があれば、一般の方にもイメージが湧きやすいかもしれませんね。
もう夕闇迫る時間帯でしたし、幼稚園の北側に位置する公園でもあったので、背広姿のオジサンが一人うろついている姿はかなり怪しかったようです(笑)。
高天神城跡にて
高天神城跡にて
高天神城跡にて
(真ん中の画像は、堂の尾曲輪虎口西側の横堀及び外土塁)
妻子が2日間の予定で実家に出かけたため、久々に東海道線で近場の掛川方面に出かけました(残念ながら車は妻に持っていかれまして・・・)。城巡りなどでくれぐれも無駄遣い(基本的に史跡めぐりは無駄なことと思われています)をしないようにと言われましたが、我慢できませんでした(笑)。
ほんとは高天神城跡散策のついでに高天神社の例大祭(25日開催)を見学したかったのですが、仕事と妻の実家移動などの都合で雨の不安がありましたが、本日に予定変更しました。高天神までのバス利用は初めてなので、少々不安がありましたが、1時間に二本程度バスが出ているので満足です。土方バス停で下車(掛川駅前から片道運賃470円)。
南口駐車場〜大手口を経て東西の曲輪を散策しました。10年以上高天神には来ていなかったので、すっかり忘れかけていましたが、案内がしっかりしていて助かりました。高天神社では明日の大祭に向けて準備が進んでいました。搦め手方面の北口駐車場付近には露店の準備が始まっていました。明日の祭りは天気大丈夫かな?
事前の情報収集をしていなかったので知りませんでしたが、的場曲輪は発掘調査があったようですね。剥き出しのトレンチ周辺にビニールシートがかかっていました。
本日の目的の1つは、高天神社裏手の堀切をはさんだ馬場平から犬戻り去る戻りの険(甚五郎抜け道)を通って林ノ谷池方面に出ることでした。武田方の横田甚五郎が脱出したと言われる山道です。ベンチが設置されていたりしてまず迷うことはありませんが、足場が砂礫が崩れやすく、崖が急峻なため小さいお子さんではかなり危ないですね。途中ピンク色の躑躅の花を愛でながら林ノ谷池のほとりに出ました。このあたりは天正9年の家康の攻城の際に大久保兄弟が陣所としていた場所です。池のほとりには武田軍の岡部氏と家康軍の板倉氏の墓碑が並んで建てられており、最後の激戦の跡を残しています。1時間半ほどの散策を終えて、再び土方バス停に移動。バス停前にある千人塚(武田方の戦死者800人ほどを祀ったと伝わります)におまいりを始めると、急に雨が降り始めました。かなり雨脚が強くなったので、バス停近くでしばらく雨宿り。再びバスに乗り、掛川駅に戻りました。
保渡田城跡(高崎市保渡田町)
(画像は、主郭中央あたりから南方の櫓台跡(天守山)を望んだものです)
上州は東国における有数の古墳王国です。このあたり国史跡の保渡田古墳群も有名です。榛名山の南東は車郡(くるまのさと)と言われ、群馬の語源にもなったようです。
先日箕輪城跡から3kmほど歩き続けて辿りついたのが、ここ旧群馬町保渡田の地です。かみつけの里博物館からほど近い場所で、この地の出身の歌人・土屋文明の功績を称えた記念文学館が近くに建っています。
7世紀前後の築造と考えられる画像の天子(守)塚古墳は円墳でしょうか。高さ5mほどの墳丘上のわずかの空間には庚申塔が乱立しています。ここが保渡田城の櫓台跡(天守山)であり、北側の集会所やブランコなどの遊具がある小公園部分が主郭部分であるといわれます。永禄9年(1566)武田信玄が長野氏の箕輪城を落とし、内藤昌秀(昌豊)を城代としたが、昌秀はここに城を築きました。長篠設楽原で昌秀が戦死すると、子の昌月が跡を継ぎましたが、天正17年(1589)7月、中川武蔵守に攻められて、善竜寺(昌月開基)で自刃したとも言われます。
天守山の南方が大手口といわれます。北城側は畑地や民家に取り囲まれていて、堀跡などは明確に残っていません。
沼田城跡の城鐘
甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏の争奪戦の舞台となった沼田は小田原攻めの後、真田昌幸の長男・信幸に安堵されました。さらに関ヶ原の戦いの戦功により旧領を安堵され城下町の整備がなされていきました。五層の天守も天和元年(1681)真田氏改易により破却されてしまいます。明治維新後荒廃していましたが、沼田藩士の子孫が大正年間に私財を投じて公園として整備しました。現在本丸、捨曲輪、二の丸、三の丸が沼田公園となっています。
天守台跡や御殿桜のある櫓台跡石垣が見られます。
寛永11年(1634)2代真田信吉が鋳造し真田家隆盛と領内安泰を祈願して三の丸の楼に吊り下げた城鐘が昭和58年に本丸内に復元した鐘楼に吊り下げられ(画像)、現在朝夕の6時に時を知らせています。
今回は沼田駅前から短時間でえっちらえっちら滝坂を上って沼田公園を目指したので、年のせいかかなり疲れました。その後、沼田名物の味噌まんじゅう(焼きまんじゅう)を腹いっぱい食べて元気を取り戻しました。みそパンという商品もあるようですが、串に刺さった味噌まんじゅうを味わってみた瞬間、これはパンではないかな?と感じました。味付けや焼き方は店によって違いますが、予想した以上においしいおやつです♪今度は餡入りも食べてみようと思います。電車の待ち時間があったので、思わず駅前のお店でも食べてしまいました(笑)。
寒風の上州にて
上州滞在中です。みなかみは午前中吹雪いていました。さすがに三河生まれの私にはきつかったです。花粉もいっぱいですし・・・。上州名物、からっ風にかかあ天下。帰還後の我が家には○妻と、からっ風に匹敵する冷たい視線が待っています(笑)。

JR上越線後閑駅からR17をとぼとぼ歩き、名胡桃城跡(群馬県利根郡みなかみ町)を訪ねました。途中、月夜野大橋の上では利根川から吹き上げてくる寒風に凍りつくかと思いました。以前見た二の郭西方の般若郭は、すっかり駐車場化していました。
ささ郭から沼田方面を眺めようとしましたが、残念ながら吹雪ではっきり見えませんでした。一方沼田に移動してからは、大橋を含めて名胡桃側が丸見えでした。争奪戦の舞台となったのも当然でしょう。この城は秀吉の小田原攻めにもつながる火薬庫的存在でした。
高崎城跡にて
今回の滞在先の目と鼻の先にある高崎城跡は、学生時代にも何度か立寄っていましたが、天気も良く、私の城の虫?が疼き出してしまい、出勤前のわずかの時間を利用して散策してきました。
高崎城は烏川左岸沿いの平山城で、和田氏によって築かれた和田城が前身です(長篠設楽原の戦いで和田業繁が戦死)。家康の関東入府に従った井伊直政はまず榛名山麓の箕輪城に封じられましたが、中山道の要であった和田宿が重視され、慶長3年(1598)和田城を大改築して入城。城を囲郭式に構え、町家や寺院を移転させて遠構えにし、城下を整備しました。
明治維新後に、歩兵15連隊の兵営となったことで、城の建物は取り壊され、近年は都市化が急速に進み公共施設などが集まり、三の丸の周囲の土塁や堀のほかは見る影もない状態となりました。
旧大手門跡付近、群馬の音楽の殿堂・群馬音楽センターの東に、江戸初期に作られたという乾櫓が昭和52年に移築・復元されています。民家の納屋として使用されていたようです。貴重な遺構であり県重文となっていますが、櫓下の石垣(本来高崎城には石垣はありません)は模造です。また乾櫓の西隣には、大手門南方の出枡形北側にあった東門が昭和55年に移築・復元されています。乾櫓・東門裏手に櫓の説明板などがあり、土塁も見られます。
下調べもしていなかったので、旧和田城の櫓台跡を訪ねようと出かけてしまいましたが、国道の建設工事のため既に滅失してしまったようです。市指定にもなっていたようなのですが、非常に残念なことです。
箕輪城跡にて
箕郷町(現在高崎市箕郷町です)周辺を散策しました。寒の戻りのため、梅の花も驚いているのではないかと思われほどでした。

箕郷町西明屋字城山に残る箕輪城跡(昭和62年12月17日国指定)を大学時代以来再訪してみました。最近背広姿での攻城が多くなっています(笑)。
何度見ても壮大な空堀には圧倒されます。関東では珍しい随所に見られる石垣遺構も含め大部分が井伊直政時代の遺構であり、長野氏時代の遺構は明らかではなく残念ですが、近世城郭への移行過渡期の姿を示した貴重な平山城です。
ちょうど発掘現場の埋め戻し作業中で、係の方にお話を伺うことができました。先月2月18日に発掘調査現地説明会が行われましたが、時期が合わず私は不参加でした。平成10年から基礎資料収集を目的として実施してきた発掘調査は終了したとのことです。どうやら今後の史跡公園整備は井伊氏在城時の姿の整備復元に求めていくことになりそうですね。
甘楽町小幡にて
上信電鉄上州福島駅から南方に向けてひたすら徒歩で小幡の城下を訪ねました。駅にレンタサイクルがありますが、午後5時までに帰還しなければならないので、今回は利用を断念しました。往路がちょっとした坂道が続くので切りかえのない自転車ではきついかもしれません。
小幡は近世小幡藩2万石の城下町で、水野氏、織田氏、松平氏などが在城しました。家康の関東入封に際し、天正18年(1590)奥平信昌が甘楽郡小幡領の宮崎(富岡市)に3万石で入封しました。
織田信雄が元和元年(1615)小幡に入封すると、雄川の右岸に平城を築くとともに、町並みを整備し、用水を開削するなどしました。雄川堰の清らかな流れや古い町並み、武家屋敷など静かな佇まいがホッとさせてくれます。映画のロケ地としても利用されているようですが、観光地然としていないのがいいですね♪
3代織田信昌の時に小幡陣屋を作り、福島から移転しました。建物は残っていませんが、一部土塁や堀が残り、陣屋跡裏に熊倉山、紅葉山の借景にした池泉回遊式庭園「楽山園」が復元整備されつつあります。平成9年から発掘調査が開始。平成12年庭園と陣屋跡が国名勝として指定され、平成14年度から10年計画で整備事業が始まり、復元にむけ工事が進んでいます。土塁、空堀、土塀が綺麗に復元され、築山には茶室が建てられ、池には水が引き入れられていました。今後の復元整備が楽しみではありますが、余り観光地化してほしくないですね。

 
レンタサイクルでいく吉井
(画像は、奥平城跡大手戸口に建つ城跡碑)
上信電鉄吉井駅の無料レンタサイクルを利用し、吉井町内を散策したのですが、まずは郷土資料館で吉井藩関係の調べモノをした後、玄太寺にある菅沼定利の墓(慶長7年卒・法名隆興院殿広山玄太大居士)に参拝しました。天正18年吉井2万石に封ぜられた定利は、吉井の町割を行っています。寺内の厄除け観音あたりで俄かに雲行きが怪しくなり、あっという間に小雨が降り出しました。
254線沿いに西進し、長根城跡を訪ねた後で予定を繰り上げて、奥平城跡を目指しました。奥平城跡までの吉井駅からの所要時間は自転車で25分といったところでしょうか。多少アップダウンがありますが、若い人ならばもっと時間が短縮できるかもしれません。町営バスを利用する方法もありますが、本数も少ないようですし、時間調整が難しそうですね。Y氏の案内で周辺を回った後で多胡碑を見学した後、吉井駅方面に戻り、曹洞宗仁叟寺と多胡館跡に立寄りました。まだまだ立寄りたかったのですが、ロスタイムが多いですね。やはり上州の史跡めぐりは車がないと・・・。
奥平家発祥之地
群馬県多野郡吉井町に所用があり、上信電鉄を利用し、町内下奥平にある奥平氏の居城を散策しました。
奥平城は、北側の申田川と南側の桜沢に削り取られた南北80m、東西200mの平城です。大手口には城跡碑や説明板が建てられています。搦手側にある武道原と空堀跡や九台には屋敷跡もあり、墓地の一角に一族の墓石とともに奥平家発祥之地碑(S16)が建っています。
奥平の地は、鎌倉初期に氏行が甘楽郡司となってから代々の所縁の地です。八代目の貞俊が天授年間に三河国作手郷川手の山崎氏を頼り移り、奥平に残った一族は武田氏に滅ぼされたといいます。なぜ父祖の地を捨てて三河国に移ったのか、諸説ありますが、事実は闇の中です。

散策は主にY氏の案内と送迎サービスにより快調に進みました。散策後にY氏のお宅をお邪魔して、史料や編纂の話題で盛り上がり、ついでに私の恩師に話が及び、赤面することしきりでした・・・。たいへん充実した時間を過ごすことができ、感謝の気持ちでいっぱいです。
野田城址にて
三河野田城(新城市豊島)といえば、元亀4年の武田信玄による攻撃が有名ですが、この城は数々の争奪戦の舞台となっています。夕方に城跡に立寄った際に、菅沼定盈の足跡や牛久保牧野方の稲垣一族の討ち死に少々触れてみたくなりました。

今川義元が桶狭間で戦死した翌永禄4年(1561)、松平氏が今川から離反すると、野田城主であった菅沼定盈も松平氏(元康)に従いました。そこで義元の子氏真は、同年7月29日(あるいは9月下旬)吉田城代の大原資良(小原鎮実)に命じて野田城を攻めさせました。牛久保・二連木・伊奈の混成軍を率いた今川軍の攻撃に対して、定盈は援軍の西郷孫九郎元正を二の丸に配し、伊賀の忍者の夜陰に乗じた攻撃を撃退するなどしました。やがて今川方から扱いが入り、今川の大軍に敵わないとみた定盈は城を明け渡して八名郡西郷に逃れました。その後、今川方の牧野出羽守と右馬亮貞成を先陣として攻め入り、逆に撃退されています。しかし、その後の今川方の執拗な攻撃の前に、西郷氏の五本松と月ケ谷の両城が落ちています。
永禄5年6月2日夜、片時も野田城の奪還を忘れなかった定盈軍が攻め入り、奪還に成功します。その際、今川方の城代稲垣半六郎氏俊(重賢三男)などが討ち死にしました。
松平清昌屋敷[蒲形陣屋]跡
2年前まで、蒲形城跡(下ノ郷城)として市の指定を受けていた蒲郡市本町にある竹谷松平氏の松平清昌屋敷(旗本陣屋、慶長17年〜明治維新まで交代寄合衆として存続)跡地は、市道工事などにより大きく変わろうとしています。稲荷社のある森の西側にあった土盛りは既になくなり、南西部の土盛りがわずかに残っています。
工事に先立つ昨年6月の発掘調査では、土盛りや庭園跡から17世紀初頭と思われる瓦片が約300個、建物の基礎である敷石も発見されました。
従前蒲形城の土塁とされてきたのは、屋敷の周りを囲む土塀由来のものであり、実際の蒲形城跡は西北100mほどの位置にあったと言われています。地元の県立高校敷地南端も含まれます。
[画像は、稲荷社の鳥居が見える森と西側の工事中の市道(ここにはかつて陣屋由来の土盛りがありました)です。]
上ノ郷城址にて (蒲郡市神ノ郷町城山)
以前、上ノ郷城の主郭は蜜柑畑、竹薮などが存在し、見通しが悪かったのですが、発掘が進むうちにすっかり開けた場所になっていました。主郭あたりからは、三河湾の眺めもよく、竹島がくっきりと見えました。

主郭中央あたりに建物の基礎となる敷石が数箇所認められ、東側一段低い位置(井戸址の西南部)にはしっかりと叩いて固められた土壇が見つかりました。またそのまわりには石組がめぐらされています。ところどころに炭化した土面が見えていました。
主郭西方にもかなり整然とした石組が続いており、さらに上部に重要な建物があったことが予想され、次回の発掘で何が出てくるか楽しみです。

次回発掘調査は来冬に予定されています。なお今期の発掘については、現地説明会などは行われないとのことです。

重機を入れることができない発掘作業であったりして、いろいろ大変だったようです。記録撮影などでお忙しかったにも関わらず、ご丁寧に説明いただきありがとうございました。
(画像左側は、主郭西方の石組部分、人物が写っている画像右側は、土壇とその右下に敷き詰められた石組部分です。)

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