後厄の昨年1年間を何とか無事に過せたお礼方々、砥鹿神社里宮(豊川市一宮町)に参拝しました。
祭神は大己貴命。吉田藩歴代藩主からの崇敬も深かったようです。摂社二宮には事代主命、三宮には建御名方命。西北には護国神社が、西大鳥居裏の駐車場南側には八束穂神社、荒羽々気(アラハバキ)神社が鎮座しています。健脚になりたいので荒羽々気さまにお参りしました。
里宮拝殿の正面表神門、南門を抜けて100m少々歩けばすぐに一宮砦跡にたどりつきます。牛久保、吉田の両城を手中に収めていなかった松平元康の東三河の重要拠点でした。永禄7年(1564)本多百助信俊の守るこの砦が今川方の大軍に囲まれた際に、元康が3000の兵をして後詰を行った武勇談は有名です。
竹薮となっている主郭遺構(80m×60m)のうち内枡形は保存状態もよく、また周囲に土塁や堀も確認できます。主郭東方が崖となり落ち込んでいます。北と南の堀は現在通路となって東側の水路・田圃へと下りることができます。土地改良碑の先にある県道豊橋・一宮線の東には豊川が迫っています。当時の流路はどこまで迫っていたのでしょうか。
豊川の対岸には砕石が行われている照山が見えます。今川軍のため永禄4年野田城を失い、西郷氏の助力で失地回復を行った菅沼定盈。そしてこれまた今川軍のため永禄5年五本松、月ケ谷の城と父と兄を失い、元康の助力で失地回復した西郷清員。ともに手を携えて豊川左岸で今川方とこの照山〜勝山あたりで戦闘。その他山家三方衆は右岸にて松原方面から追撃。菅沼家譜に見られるこの戦闘は元康の岡崎帰還の際のものでしょうか。いずれにしても大規模な戦闘はなかったようです。今川氏真は神威を怖れて、神前での戦闘を避けたのでしょうか。
祭神は大己貴命。吉田藩歴代藩主からの崇敬も深かったようです。摂社二宮には事代主命、三宮には建御名方命。西北には護国神社が、西大鳥居裏の駐車場南側には八束穂神社、荒羽々気(アラハバキ)神社が鎮座しています。健脚になりたいので荒羽々気さまにお参りしました。
里宮拝殿の正面表神門、南門を抜けて100m少々歩けばすぐに一宮砦跡にたどりつきます。牛久保、吉田の両城を手中に収めていなかった松平元康の東三河の重要拠点でした。永禄7年(1564)本多百助信俊の守るこの砦が今川方の大軍に囲まれた際に、元康が3000の兵をして後詰を行った武勇談は有名です。
竹薮となっている主郭遺構(80m×60m)のうち内枡形は保存状態もよく、また周囲に土塁や堀も確認できます。主郭東方が崖となり落ち込んでいます。北と南の堀は現在通路となって東側の水路・田圃へと下りることができます。土地改良碑の先にある県道豊橋・一宮線の東には豊川が迫っています。当時の流路はどこまで迫っていたのでしょうか。
豊川の対岸には砕石が行われている照山が見えます。今川軍のため永禄4年野田城を失い、西郷氏の助力で失地回復を行った菅沼定盈。そしてこれまた今川軍のため永禄5年五本松、月ケ谷の城と父と兄を失い、元康の助力で失地回復した西郷清員。ともに手を携えて豊川左岸で今川方とこの照山〜勝山あたりで戦闘。その他山家三方衆は右岸にて松原方面から追撃。菅沼家譜に見られるこの戦闘は元康の岡崎帰還の際のものでしょうか。いずれにしても大規模な戦闘はなかったようです。今川氏真は神威を怖れて、神前での戦闘を避けたのでしょうか。
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