牧野新次郎成勝について
今川氏の命により今橋城を築いた牧野古白をはじめとする牧野一族の系譜はたいへん混乱しているが、かえってそれが今川、松平、戸田氏などの勢力の狭間で一族が生き残りをかけて軌跡を表わしているように思えてならない。
寛政重修諸家譜、宮島傳記のように、古白の子供を成三(三成)とし、その弟を田三・信成としているものもある。病弱であった成三が、弟を養子にして家督を譲ったとされる。
将軍家初代家康やその祖父・清康に弓を引いた一族を公の場で列挙することは憚られるのは当然の理かもしれない。吉田に改められた城にあって、清康に攻め滅ぼされた(享禄2年説、天文元年説、両年の2回戦闘説あり)信成以下の牧野一族や永禄6年に元康(後の家康)に攻められた牛久保城主出羽守保成(負傷がもとで死亡した説、暗殺説あり)などもそれにあたる。
三河物語では、清康による攻城の際に、篭城策を廃して出撃した一族を伝蔵(伝三、田三)、伝次(成高)、新蔵(成村)、新次(成勝か?)兄弟としている。宮島傳記では、清康に寝返った正岡の伝兵衛尉成敏も兄弟としている。
三河国吉田名縦綜禄には、牧野兄弟のうち新次郎だけが、討ち死にと偽って浅瀬を渡り、赤岩の法言寺(現在の赤岩寺、裏山は赤岩山城)に忍居し、後に戸田家に入ったという記述がなされている。また吉田城の城代(疑問が残るが)となった牧野成敏の家臣である戸田新次郎、宗兵衛等が松平清康横死の際に田原の戸田氏と図って吉田城を攻略したとの記述もある。この新次郎がともに牧野新次郎成勝(民部丞)と仮定すれば、成勝=氏勝とし、氏勝−貞成−成定−康成という流れが想定されるのであろうか。もしそうならば、吉田城から牧野一族(成三)によって追い出された元城主の戸田金七郎宣成の再入城が牧野一族によってなされたことになり、皮肉なことである。
確証はなく、あくまで想像の範囲だが、想像をめぐらせることはたいへん楽しい。
(未整理中につき、つづく)

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