牧野新次郎成勝について?
宮嶋郷家伝書記においては、牧野田三信成以下一族が討ち死にした吉田合戦を天文元年(1532)5月27日のこととし、「牧野新三成村は赤岩の法言寺へ落ち延びて後は戸田家を継ぐと云り。新次郎成勝は散兵を斂め、勝ち誇ったる岡崎勢を切脱て牛久保へ帰陣・・・」と記しており、入城した松平清康が3日滞在するうちに仁連木の戸田氏、牛久保の牧野新次郎成勝が降伏したと伝える。参河国聞書においても、日付は28日のこととしながらも牧野新三成村が赤岩に退いたとし、牧野新次成次が牛久保に帰陣したとしている。新次郎と新三について、先に述べた三河国吉田名縦綜録との齟齬が見られる。
吉田合戦直前までは、吉田城に牧野田三信成、一色城に牧野成勝、牛久保城に信成の子息とされる牧野出羽守保成、市田(八幡近き)には牧野四郎左衛門、伊奈には牧野平三郎というように一族が繁栄していたことになる。
牛窪密談記などによると、永禄6年(1563)3月今川方にあった牛久保城は松平元康に攻められ落ちるが、城主牧野保成は松井左近に槍で突かれて自害したとしている。かねてから松平氏に心を寄せていた牧野(新次郎)民部丞成継(成勝)は、病気と称して家督を譲った嫡子(新次郎)右馬允成守(成定)を立てて参戦しなかったようである。永禄5年に富永・広瀬、八幡合戦などで勲功を立てた成定であったが、前年永禄4年松平方の荒川・酒井軍に攻められて、持ち場である西条城を捨てて牛久保に帰陣している。
密談記では、成勝が保成の死後ほどなく死亡し、嫡子成守は遠州宇津山に退き、岡崎に内通しながらも表向きは(今川側の)牛久保方(保成の子息成元)の旗色を示していたように記している。
永禄8年2月まで永禄8年(1565)吉田城を無血開城させた牧野成定は子息新次郎成定(9歳、後の康成)を岡崎に人質として出し、翌年10月23日42歳で病没した。
保成の死についてはさまざまな説があるが、成勝の死についても単なる病死ではないような印象を受けてしまう(かなり高齢だったのかな?)のは私だけであろうか。

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