豊川方面に買い物の用事があり、ついでに八幡宮に参拝し、豊川額田線を通り、平尾町内の東名高速道路子下を通過、駒場調整池の北東からゴルフクラブ手前を通り、音羽町に入りました。中山トンネルを抜けると、羽根交差点から右折してR332(大代音羽線)を北東に向かいます。このコースなら八幡から音羽町がなんと近いことか・・・。
目的地は、4月半ばにピンク色に咲き乱れるコバノミツバツツジの群生地で有名な、音羽町萩地区の富士神社あたり。背後の背戸山は楽しいハイキングコースなのでつつじ祭りの季節には子連れで出かけます。今日の真の目的は、隣接した善住禅寺。ここでは芙蓉の花を愛でてから、展望用の櫓に登りましたが、高さの上でも方向的にも、あくまで花の季節に眺めるためのものでしょう。
息子が寺の御神籤を引くと「小吉」が出ました。息子が「大凶」の籤もあるのかと聞くので、私が22年前日光東照宮に参拝した際に大凶を出したことを教えました。でもあの時は修士試験にも合格したし、ものは考えようです。
善住禅寺の正面向かって右手の山際の上り口を少し登り、墓地の一画にある萩城主奥平家の墓に参拝しました。ここは作手二代奥平貞久の四男である主馬允が萩に進出して興した萩家の墓地です。目新しい「萩城主奥平周防守家之墓」という石碑が建てられています。
萩家は7代目に中金家の正俊を養子に迎えましたが、興禅寺における刃傷事件で黒屋家五代内蔵允を兄の中金隼人に加勢して主馬允正俊も切りつけたことが発端となり、自刃した内蔵允の息子源八の仇として山形上ノ山において正俊が討たれました。やがて寛文12年(1672)江戸の浄瑠璃坂で仇討ち事件が起き、隼人も討ち取られました。この結果、萩家は断絶しました。
3年前に息子とともに音羽町内の城跡を訪れているので、今日の城跡散策は強制的にパスとなりました。
目的地は、4月半ばにピンク色に咲き乱れるコバノミツバツツジの群生地で有名な、音羽町萩地区の富士神社あたり。背後の背戸山は楽しいハイキングコースなのでつつじ祭りの季節には子連れで出かけます。今日の真の目的は、隣接した善住禅寺。ここでは芙蓉の花を愛でてから、展望用の櫓に登りましたが、高さの上でも方向的にも、あくまで花の季節に眺めるためのものでしょう。
息子が寺の御神籤を引くと「小吉」が出ました。息子が「大凶」の籤もあるのかと聞くので、私が22年前日光東照宮に参拝した際に大凶を出したことを教えました。でもあの時は修士試験にも合格したし、ものは考えようです。
善住禅寺の正面向かって右手の山際の上り口を少し登り、墓地の一画にある萩城主奥平家の墓に参拝しました。ここは作手二代奥平貞久の四男である主馬允が萩に進出して興した萩家の墓地です。目新しい「萩城主奥平周防守家之墓」という石碑が建てられています。
萩家は7代目に中金家の正俊を養子に迎えましたが、興禅寺における刃傷事件で黒屋家五代内蔵允を兄の中金隼人に加勢して主馬允正俊も切りつけたことが発端となり、自刃した内蔵允の息子源八の仇として山形上ノ山において正俊が討たれました。やがて寛文12年(1672)江戸の浄瑠璃坂で仇討ち事件が起き、隼人も討ち取られました。この結果、萩家は断絶しました。
3年前に息子とともに音羽町内の城跡を訪れているので、今日の城跡散策は強制的にパスとなりました。
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