設楽原散策?篠場野からコロミツ坂へ
2006年10月8日 城跡散策
最近運動不足気味で、ウォーキングにもまったく参加していませんでした。こんな秋晴れのなか、少し気分転換したくなり、一人史跡めぐりの旅に出ました。旅といっても近場でなじみの場所ではありましたが、中学時代に戻ったような気分になり、徒歩で散策することにしました。
昭和52年の7月下旬、友人とともに泊りがけで踏破した長篠設楽原古戦場のうち、篠場野から有海原企業団地を経て、才の神赤禿方面〜丸山〜大宮激戦地〜馬防柵復元地〜柳田前激戦地〜信玄塚に至るコースです。30年ぶりにすべて徒歩で回ってみました。所要時間はおよそ3時間でした。途中やはりマムシに飛びつかれそうになりました。軽装は危険です。
JR豊橋駅9時19分発の飯田線普通列車に飛び乗りました。出発地点の鳥居駅には10時16分着。さっそく新昌寺に移動し、鳥居勝商公の墓に参拝。磔刑地の地を経て、牛淵橋(昭和4年永久橋)から長篠城址を遠望し、一服。今日は吹き飛ばされて豊川に転落しそうな強風でしたので、撮影の間はちょっと足が竦みかけました。なぜかいつも牛渕橋から城跡を撮影する時は雨模様でしたので、久々に気分よく撮影できました。結構裏道として通行する車が多くて、ぼんやり撮影していると危険です(笑)。
橋の手前の釣り人用の降り口から長走りまで降りてみました。城内から援軍要請のため脱出し、ここで鳴子網を断ち切った鳥居勝商。どんな人物だったのでしょうか・・・。
牛渕橋をあとに鳥居駅まで取って返し、つぎに有海原工業団地を目指します。この高台の一部が信長賞詞地と伝わっています。往時からここに至る峠道がコロミツ(来光)坂、コロミツ峠と呼称されていたようです。現在の字名に小呂道という名称が残っています。私はまずここに立ち寄り、清井田の武田勝頼戦地本陣地、武田諸将訣盃ノ地を経由して八束穂下々から才の神赤禿方面に出ようと思いました。それにしても工場が立ち並び道路は整備され、ヒト昔とは別世界の感があります。峠の上り口の岩倉神社前を過ぎ登りつめると、緑地公園(野球場)と貯水池の間を抜けて、浄水場の配水塔に至ります。一応立ち入り禁止区域ですが、配水塔の右手前に石碑があることを示す消えかかった案内板が残っていました。長篠城を500名余りの兵で持ちこたえさせ、戦後信長に戦功を賞された奥平貞昌はさぞ感激に浸っていたことでしょう。信長が緯字を貞昌に与えて信昌と改めさせたとか、武者之助と名乗ったとか家康から般若長光を賞賜されたという話があります。諸説あるので事実はわかりませんが、いずれにしても貞昌は最高の栄誉に心が打ち震えていたのでしょう。
配水塔下の道のカーブミラーがある辺りからは城跡が見通せません。ちょっと残念・・・。冬期にまた来て見ます。(つづく)
昭和52年の7月下旬、友人とともに泊りがけで踏破した長篠設楽原古戦場のうち、篠場野から有海原企業団地を経て、才の神赤禿方面〜丸山〜大宮激戦地〜馬防柵復元地〜柳田前激戦地〜信玄塚に至るコースです。30年ぶりにすべて徒歩で回ってみました。所要時間はおよそ3時間でした。途中やはりマムシに飛びつかれそうになりました。軽装は危険です。
JR豊橋駅9時19分発の飯田線普通列車に飛び乗りました。出発地点の鳥居駅には10時16分着。さっそく新昌寺に移動し、鳥居勝商公の墓に参拝。磔刑地の地を経て、牛淵橋(昭和4年永久橋)から長篠城址を遠望し、一服。今日は吹き飛ばされて豊川に転落しそうな強風でしたので、撮影の間はちょっと足が竦みかけました。なぜかいつも牛渕橋から城跡を撮影する時は雨模様でしたので、久々に気分よく撮影できました。結構裏道として通行する車が多くて、ぼんやり撮影していると危険です(笑)。
橋の手前の釣り人用の降り口から長走りまで降りてみました。城内から援軍要請のため脱出し、ここで鳴子網を断ち切った鳥居勝商。どんな人物だったのでしょうか・・・。
牛渕橋をあとに鳥居駅まで取って返し、つぎに有海原工業団地を目指します。この高台の一部が信長賞詞地と伝わっています。往時からここに至る峠道がコロミツ(来光)坂、コロミツ峠と呼称されていたようです。現在の字名に小呂道という名称が残っています。私はまずここに立ち寄り、清井田の武田勝頼戦地本陣地、武田諸将訣盃ノ地を経由して八束穂下々から才の神赤禿方面に出ようと思いました。それにしても工場が立ち並び道路は整備され、ヒト昔とは別世界の感があります。峠の上り口の岩倉神社前を過ぎ登りつめると、緑地公園(野球場)と貯水池の間を抜けて、浄水場の配水塔に至ります。一応立ち入り禁止区域ですが、配水塔の右手前に石碑があることを示す消えかかった案内板が残っていました。長篠城を500名余りの兵で持ちこたえさせ、戦後信長に戦功を賞された奥平貞昌はさぞ感激に浸っていたことでしょう。信長が緯字を貞昌に与えて信昌と改めさせたとか、武者之助と名乗ったとか家康から般若長光を賞賜されたという話があります。諸説あるので事実はわかりませんが、いずれにしても貞昌は最高の栄誉に心が打ち震えていたのでしょう。
配水塔下の道のカーブミラーがある辺りからは城跡が見通せません。ちょっと残念・・・。冬期にまた来て見ます。(つづく)
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