設楽原散策?武田勝頼戦地本陣地跡から武田諸将訣盃の跡まで
2006年10月9日
コロミツ坂方面からそのまま国道151号線に出てもよいのですが、国道がもう少しに見える辺り、有海原企業団地の外れ(三菱電機)から右に細い道に入ります。昼なお暗い切り通しを抜けると、元清水寺の泉が・・・。ここはミウチヒラ地域入り口。左手に秋葉灯篭が見えます。おそらく切り通し道は、古くから秋葉みちとして旅人が通ったのでしょう。
灯篭の前を少し進めば三叉路があります。右手永観寺(小さな秋葉みちの道標があります)の前を通り、しばらく人家の外れまで登れば、右手の上方に武田勝頼戦地本陣地跡の説明板が、左手奥には大正3年建立の石標があります。後で裏山に役行者(利修仙人?)らしき石像が祀られていることに気づきました。
新城茶の福田園(JR三河東郷駅から徒歩10分)さんの看板の先は151号線です。このお店では、お茶缶に長篠合戦屏風を扱った製品があるらしく、少し欲しくなりました(笑)。
新城方面に一旦戻るかたちになりますが、清井田の信号交差点を渡り、ラーメン屋さんの前をしばらく進んで豊橋鉄道新城管理所の手前の2本手前の脇道左手山側に注意を向ければ、設楽原古戦場いろはかるたの「訣盃の跡清井田に清水湧く」の説明板が見えます。そこから左手に40m進めば武田諸将の訣盃の跡があるという案内があるのですが、進むほどに草が生い茂り、足元が緩く落下する恐れがありかなり危険でした。足元の悪さに倍ぐらい距離を進んだような気がしました。
昭和52年7月下旬、友人とともにこの訣盃地を訪ねた際に、地主の方に声をかけて案内していただいて、民家の敷地内を通り、田の畦道を抜けたような気がします。やはりその記憶どおりで、清水が湧き出る場所に石標(大正3年建立)がありました。清井田、清水ケ入などの地名のとおり、この地域の各所に清水が湧き出ていました。昭和52年訪問の際には地主の方からここで発見されたかわらけの盃を見せていただきました。決戦を前にした武田の宿将たちが、本営近くのこの地で訣別の盃を交わしたというのは事実でないにしても、戦場を視察した諸将がここでのどの渇きを潤したことは十分考えられます。
当時中学生だった私たちは盃のいわれをめぐって、ああだこうだと激論を交わしていました。その盃は現在新城市設楽原歴史資料館に展示されています。
灯篭の前を少し進めば三叉路があります。右手永観寺(小さな秋葉みちの道標があります)の前を通り、しばらく人家の外れまで登れば、右手の上方に武田勝頼戦地本陣地跡の説明板が、左手奥には大正3年建立の石標があります。後で裏山に役行者(利修仙人?)らしき石像が祀られていることに気づきました。
新城茶の福田園(JR三河東郷駅から徒歩10分)さんの看板の先は151号線です。このお店では、お茶缶に長篠合戦屏風を扱った製品があるらしく、少し欲しくなりました(笑)。
新城方面に一旦戻るかたちになりますが、清井田の信号交差点を渡り、ラーメン屋さんの前をしばらく進んで豊橋鉄道新城管理所の手前の2本手前の脇道左手山側に注意を向ければ、設楽原古戦場いろはかるたの「訣盃の跡清井田に清水湧く」の説明板が見えます。そこから左手に40m進めば武田諸将の訣盃の跡があるという案内があるのですが、進むほどに草が生い茂り、足元が緩く落下する恐れがありかなり危険でした。足元の悪さに倍ぐらい距離を進んだような気がしました。
昭和52年7月下旬、友人とともにこの訣盃地を訪ねた際に、地主の方に声をかけて案内していただいて、民家の敷地内を通り、田の畦道を抜けたような気がします。やはりその記憶どおりで、清水が湧き出る場所に石標(大正3年建立)がありました。清井田、清水ケ入などの地名のとおり、この地域の各所に清水が湧き出ていました。昭和52年訪問の際には地主の方からここで発見されたかわらけの盃を見せていただきました。決戦を前にした武田の宿将たちが、本営近くのこの地で訣別の盃を交わしたというのは事実でないにしても、戦場を視察した諸将がここでのどの渇きを潤したことは十分考えられます。
当時中学生だった私たちは盃のいわれをめぐって、ああだこうだと激論を交わしていました。その盃は現在新城市設楽原歴史資料館に展示されています。
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