曹洞宗大宝山西明寺は一条天皇の正暦年間(990年〜995年)に三河国司となった大江定基が愛妾の力寿姫と死別し無常を感じて、仏門に入り寂照と改め、大宝山の東の山麓に草庵を結び六光寺と名づけ、天台宗の寺としたのが始まりとされています。
鎌倉期に臨済宗最明寺と改められます。駿河の今川義元が桶狭間で戦死すると、東三河では松平氏と今川氏との戦闘が繰り広げられるようになります。吉田城開城の前年、永禄7年(1564)大宝寺の西山麓で繰り広げられた鷺坂合戦の際に、最明寺四世快翁竜喜和尚が粥を炊いて松平の陣営に送り届けたといいます。勝利を収めた家康は最明寺で阿弥陀如来像に武運祈願したそうです。このことを徳として、慶長8年(1603)に家康は伏見城に六世伝芝全授和尚を招き、寺領20石の朱印状を渡し、「西」の字を与え、西明寺に改めたといいます。
(以上西明寺案内パンフレット参考)
朱塗りの風格ある山門と土塀の葵の紋が目に入ります。山門左手には樹齢400年のもっこく(市指定天然記念物)が枝を広げています。入母屋造りの本堂裏手には回遊式の大庭園があり、その規模と美しさに見とれてしまいます。足元はきれいな杉苔に覆われています。しばし静寂の中に立ち止まり時を忘れてくつろぎます。
鎌倉期に臨済宗最明寺と改められます。駿河の今川義元が桶狭間で戦死すると、東三河では松平氏と今川氏との戦闘が繰り広げられるようになります。吉田城開城の前年、永禄7年(1564)大宝寺の西山麓で繰り広げられた鷺坂合戦の際に、最明寺四世快翁竜喜和尚が粥を炊いて松平の陣営に送り届けたといいます。勝利を収めた家康は最明寺で阿弥陀如来像に武運祈願したそうです。このことを徳として、慶長8年(1603)に家康は伏見城に六世伝芝全授和尚を招き、寺領20石の朱印状を渡し、「西」の字を与え、西明寺に改めたといいます。
(以上西明寺案内パンフレット参考)
朱塗りの風格ある山門と土塀の葵の紋が目に入ります。山門左手には樹齢400年のもっこく(市指定天然記念物)が枝を広げています。入母屋造りの本堂裏手には回遊式の大庭園があり、その規模と美しさに見とれてしまいます。足元はきれいな杉苔に覆われています。しばし静寂の中に立ち止まり時を忘れてくつろぎます。
コメント
西ヲ明ラム寺
とても縁起が良いというか、徳に篤いというか。
天台宗→臨済宗→曹洞宗と、
宗派の変遷を辿られたということで、
このようなことは、他のお寺さんにもよくあることなのでしょうか。
また、臨済宗から天台宗へ改宗された時期、経緯についても興味があります。
平安期開基の寺院が改宗なしに現在に至るのは、畿内のよほどの大寺か勅願寺くらいでしょうか。地方寺院では、鎌倉〜室町期あるいはもっと早い時期に衰退してしまうことが多いように思います。領主が帰依した禅師を荒廃寺院に招請し、改宗(禅宗等へ)・中興開山するといったケースが多く見られます。
西明寺の場合は、鎌倉期に臨済宗に改宗し再興しましたが、やがて再び荒廃。15世紀後半、当地を領した駿河の水野氏が尾張の乾坤院の太素省淳和尚を招き、曹洞宗に改宗しました。改宗しながらも1000年も法灯を守り続けることは、かなり困難ですね。やはり時の権力にそれなりに保護されないと・・・。