曲尺手(かねんて)
2006年10月29日
東海道の要衝の地にある宿駅・吉田宿は城下町と湊町を兼ねていました。町の中心を東海道が通過しており、軍事目的の意味もあって数箇所に曲がり角が設けていました。
特に現在地名にも残っているように、曲尺手町から呉服町にかけては、吉田城の大手門と曲尺手門の中間点あたり位置し、堀の折れに沿うような形状に設けられていました。
一般に大名行列同士がかち合わないために、曲尺手に至る前にこの先かち合うことがないか斥候しておいて、かち合ってしまう場合は、付近の寺院などに退避してやり過ごしたようですので、もしそういった退避行為が行われたとしたら、南側にある龍拈寺が使用されたのでしょうか。記録が残っていないか、また調べてみようと思います。
4年ほど前に読んだ宮城谷昌光さんの現代小説の中(題名忘れました)に、写真部に所属している主人公の大学生が、自分の父親に関わる謎を求めて曲尺手町を訪ねるという場面があったように思います。確か「曲尺手」という章だったような・・・。曖昧な話ですいません。
(画像は、分離帯に設けられている史蹟曲尺手門址の碑です)
特に現在地名にも残っているように、曲尺手町から呉服町にかけては、吉田城の大手門と曲尺手門の中間点あたり位置し、堀の折れに沿うような形状に設けられていました。
一般に大名行列同士がかち合わないために、曲尺手に至る前にこの先かち合うことがないか斥候しておいて、かち合ってしまう場合は、付近の寺院などに退避してやり過ごしたようですので、もしそういった退避行為が行われたとしたら、南側にある龍拈寺が使用されたのでしょうか。記録が残っていないか、また調べてみようと思います。
4年ほど前に読んだ宮城谷昌光さんの現代小説の中(題名忘れました)に、写真部に所属している主人公の大学生が、自分の父親に関わる謎を求めて曲尺手町を訪ねるという場面があったように思います。確か「曲尺手」という章だったような・・・。曖昧な話ですいません。
(画像は、分離帯に設けられている史蹟曲尺手門址の碑です)
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