羽田村古城
今日は夕方から徒歩30分ほどの外回りの仕事となりました。用事をそそくさと済ませた帰還途中、豊橋駅西口から懐かしい道を足早に歩いてゆくと、以前お世話になったアイクワさんの前を通過・・・。クワ熱が出て、思わず吸い寄せられそうになりました。さらに北西方向に進んでいくと、花田町字築地あたりに出ました。そして字百北に向かうに従い、豊○工業さんが見えてきました。知らない間に城跡に吸い寄せられていたのです(笑)。

ここは、羽田村古城跡です。城主は、石原百度兵衛、鋤柄百度右衛門と伝わっています。今回は偶然の立寄りとなりましたが、3度目の訪問になります。城跡に遺構はありませんが、北側に回れば(会社の入り口を右手に見ながら坂を北側に下りていきます)敷地側が高台(比高5m)に位置することがわかります。地籍図では、台地端に位置し、北と南の2つの曲輪に分かれていたものと推測されます。台地の西北側は現在駐車場や宅地になっていますが、地籍図では池となっています。
日暮れが迫っていました。携帯カメラでさくっと撮影して引き上げました。わずか数分の滞在でした。
現在細君のPCに間借りしている関係上、携帯撮影のものしか画像UPできない状態にあります。デジカメ映像をUPする日はまだまだ遠そうです。

コメント

nophoto
kourei
2006年11月21日1:23

こんばんは☆
百度屋敷、懐かしいですね。
確か「ずんど」って読むのでしたでしょうか。
豊橋市街地のお城は、喜見寺砦や清源寺館など跡形も無いところばかりですね。
まぁもっとも、それほどの構えではなかったでしょうが…。

倉次郎
倉次郎
2006年11月21日23:06

そうです、「ずんど」ですね。語源はなんでしょうか。城名などでよく聞く、百々(どうど)とか道目記(どうめき)などは、確か滝など水流に関係がある土地だったような気がします。音が関係していたような・・・。
百度は地名からきているのか、よくわかりませんが、明治の地籍地図から見ると、台地の端で池?に面した地形ですので、水流豊かな場所であったかもしれません。

ほんと両砦は遺構はまったくありませんね。非常に残念です。造作も単純で防御性は乏しかったのでしょうか。もっとも鉄道が走ったり、町割が変化したりしてますが。
砦跡が寺社などとして利用された場合も多かったと思われます。堀が残っていても寺院建設後のものかどうか判別がしにくくなってしまいます。そういう意味では同時期に吉田城攻めの際の松平方砦として築かれたとされる小坂井町の糟塚砦(龍徳院)の空堀・土塁遺構なども疑問が残ります。

倉次郎
倉次郎
2006年11月22日0:27

さきほど「どうど」で検索かけたら、kourei さんのHPが出てきました!説明をされていたのですね。知りませんでした。でしゃばってすいませんでした。m(・・)m

nophoto
kourei
2006年11月22日0:54

ありがとうございます。
はい、私の歴史への興味の始まりが「川→地名」だったので、以前少し「土々川」の項でふれたことがありました。
屋敷の通称が「ずんど」で、石原氏、鋤柄氏の名前の読み名は「ひゃくど?」なのか疑問に思っていました。
それとも両者が、その場所のいわれを名前に充てたのかもしれませんね。
わからないことがまだたくさんありますので、どうかまたお教えくださいませ。宜しくお願い致します。

nophoto
kourei
2006年11月22日1:05

明治の地籍図をお持ち?なのですね。
おっしゃられる通り、台地縁端なので眼下には水流があったかもしれませんね。
何かの本で見ましたが、この屋敷の時代より前のことだと思いますが、古東海道が渡津(小坂井)から坂津(牟呂)まで海もしくは豊川を渡った、とありますから、ほんとうに眼下は水であったのかもしれません。
我が家にも旧一宮町役場でお借りした一宮の地籍図のコピーがあるのですが、今とまったく違う地形や地目の差を紹介できたらなぁと考えてはいるのですが…。

倉次郎
倉次郎
2006年11月23日21:15

Koureiさん こんばんは!
こちらこそ勉強させていただいております。よろしくお願いいたします。
水脈の変化があると思いますので一概に言えませんが、平安期ころから、豊川の左岸は城海津〜石塚〜羽田〜坂津に面しているようですね。坂津に船が着いたということになれば、古城のあった羽田あたりからは豊川が眼下にあったと考えられますね。ご教示ありがとうございました。
一宮の地籍図、たいへん興味あります。また新しい情報楽しみにしております♪