茂松城、熊子砦と牧主計
2006年11月25日 人物 コメント (4)
茂松城(宝飯郡御津町広石)は細川兵部少輔勝久が在城し、文明年間頃に今川義忠に滅ぼされ、後年牧野古白の六男であった牧主計が入城したと伝わっています。牧主計という人物は、桶狭間の戦いに従軍し、戦死したと伝わっています。
ところで、現在の西尾市にある久麻久神社(八ツ面山の方ではありません)南側にあったと伝わる「熊子砦(熊味町山畦)」は神主・牧氏の館跡だといわれています。同じ熊味町内にある熊子観音寺は、明治の神仏分離令以前は久麻久神社境内にあったといいます。5年ほど前にこの地を訪ねた際に知ったことですが、熊子観世音菩薩略縁起によると、源氏の末裔である牧佐治兵衛忠信の子・牧主計忠治は、元和5年(1619)、奈良興福寺から観音菩薩を譲り受けてこの堂を建立した人物であるといいます。また忠治は熊子大明神の神職でありますが、茂松城主であるとし、天正12年(1584)の小牧の戦いに従軍して武功をあげ、大坂の陣でも奮戦したとあります。その後、本多忠政の臣下になったのか、姫路に国替えになった際に同行したという内容の記述があります。
茂松城主であった牧主計が牧野古白の子供であったということは牧野氏の系図などからの確証は得られません。熊子砦の牧一族が、桶狭間で戦死した茂松城主・牧主計の子孫であったかどうかについても明確な回答は得られません。三河一向一揆の際に家康に味方した牧主計吉元という人物もいたようですので、今後関係を調べていきたいと思います。
また一向一揆の際に家康に対抗して滅びた荒川城(八ツ面古城)の荒川甲斐守義広は、八ツ面山の大宝天王(現在の八ツ面山男山の久麻久神社)を敬っていましたので、非常に近接した地域にあった荒川氏と牧氏の関わりがどうであったのかこちらも知りたいところです。
ところで、現在の西尾市にある久麻久神社(八ツ面山の方ではありません)南側にあったと伝わる「熊子砦(熊味町山畦)」は神主・牧氏の館跡だといわれています。同じ熊味町内にある熊子観音寺は、明治の神仏分離令以前は久麻久神社境内にあったといいます。5年ほど前にこの地を訪ねた際に知ったことですが、熊子観世音菩薩略縁起によると、源氏の末裔である牧佐治兵衛忠信の子・牧主計忠治は、元和5年(1619)、奈良興福寺から観音菩薩を譲り受けてこの堂を建立した人物であるといいます。また忠治は熊子大明神の神職でありますが、茂松城主であるとし、天正12年(1584)の小牧の戦いに従軍して武功をあげ、大坂の陣でも奮戦したとあります。その後、本多忠政の臣下になったのか、姫路に国替えになった際に同行したという内容の記述があります。
茂松城主であった牧主計が牧野古白の子供であったということは牧野氏の系図などからの確証は得られません。熊子砦の牧一族が、桶狭間で戦死した茂松城主・牧主計の子孫であったかどうかについても明確な回答は得られません。三河一向一揆の際に家康に味方した牧主計吉元という人物もいたようですので、今後関係を調べていきたいと思います。
また一向一揆の際に家康に対抗して滅びた荒川城(八ツ面古城)の荒川甲斐守義広は、八ツ面山の大宝天王(現在の八ツ面山男山の久麻久神社)を敬っていましたので、非常に近接した地域にあった荒川氏と牧氏の関わりがどうであったのかこちらも知りたいところです。
コメント
あの当時は案内板がしっかりしていなくて、ここかな?と思ったくらいな感じでした。
茂松城や野口城、市田城の細川氏。
私の勤め先にいる人が、その子孫の分家であることがわかりました。
案外、関係者がいるんだなぁと思いましたが、皆さんがあまりお城のこととかに関心がなくて、忘れ去られてしまうのが残念にも思いました。
主郭の説明板や標柱も朽ちかけて、見るたびに倒れていたりしています。
細川氏の御子孫がいらっしゃるんですか?それはすばらしいことですね!系図や中世〜近世の記録文書などは残っていないのでしょうか。口承伝承でもいいので、残していってほしいですね。
ご丁寧にご教示いただき、ありがとうございました。たいへん参考になります。
島田城に関わる牧氏ということになりますと、守山、中区などもゆかりの地ということになりますね。由緒あるご先祖さまを大切に思われ、歴史を研究されている姿にはたいへん頭が下がります。大変だとは思いますが、歴史の真実の解明に向けて、頑張ってください。
9年前までは名東区に住んで、仕事で天白にも足を運んでいたに関わらず、お店を知りませんでした。すいません。
機会があればぜひ立寄らせていただきたく思いますので、よろしくお願いします。