長篠城址第8次発掘調査現地説明会(12/2)
長篠城址第8次発掘調査現地掘説明会、ぎりぎりまで家族交渉を行い、許しを得て参加してきました。
午前11時過ぎ、昨年実施された発掘現場周辺に集合。少々遅刻しましたが、まだ説明会は始まっておらずセーフ。参加者は20名程度。天気は晴れ。
JR飯田線の踏み切りを渡って、野牛曲輪側へ移動。3箇所のトレンチについて、学芸員の方から説明を受けました。ちょうど飯田線を見上げる場所にあり、今日はなんだか飯田線がうらめしく感じました。
今回の調査では、天明二年(1782)作成の古絵図の溜池(8Aトレンチ)にあたる場所からは木杭が4箇所からみつかり、曲輪と池もしくは溝(南北5〜7m、東西約40m以上)との境界を示す柵列が想定されます。検出面は粘土、シルト層で水の溜りが見られます。付近には城兵の喉を潤したと思われる殿井もあり、地表にしみ込んだ雨水があふれ出しています。長篠合戦後、野牛曲輪の一部は田になってしまったようなので、おそらく溜池は近世期のものではないでしょうか。それにしても流れ出ている水量の豊富さはかなりのものですね。
木杭北側の波形状態はなかなかわかりずらく、具体的に防衛的な意図があって作られたものなのか明確でなかったように思います。
鉄橋から程近い場所にあたる8Cトレンチの上方でみつかった土塁の立ち上がり方から、JR飯田線はまさに主郭と野牛曲輪の間にあった土塁上を走っていることがわかります。合戦当時のように土塁があっても、本日偶然登ることができた中山砦あたりから主郭は丸見え状態ですし、今回の調査で宇連川に面した場所から土塁が見つかっていないことから、要害地形を頼りとして河川側に対する防御は手薄だったと思われます。対岸からの矢玉を防ぐためには、やはり図屏風に見られるような簡素な作りの塀などがあった程度でしょうか。
篠場野、有海方面の包囲軍(武田軍)が寒狭川を渡河し野牛曲輪へ竹束を押し立てて仕寄ったので、渡合の南門から城兵(奥平軍)が出撃し追い立てて、竹束を焼き払う(5月11日)と、翌日も敵が竹束で仕寄るというような記述があります。城兵は矢石で応戦したようですが、当然火縄もある程度野牛曲輪に配備されていたはずです。塀が引き破られたりすれば、瓢曲輪の戦闘のように畳等を臨時の盾代わりにしたのでしょう。
古絵図にある主郭北面の大土居と東端の土塁の切れ目(虎口)から近い場所(8Aトレンチはやや東南部)であるので、8Aトレンチのさらに北側から瓢曲輪方面にかけて発掘調査してほしいです。でもそうすると、飯田線を止めないといけなくなりますね。いっそ高架式にしてくれないかな(笑)。
出土遺物は少なく、土師器の鍋が多く、その他陶器片や鉄砲玉(1個)なども見つかっています。学芸員の方のお話では、今回出土品の目玉は木製の黒塗りの椀?盃?であるとのことで、(朱塗りの巴紋)が入っていました。調査報告書を待つことにします。
来年度の発掘調査の主眼は、中堀の末端調査にあるらしいので(聞き違いだったかもしれないので、少々自信がありませんが・・・)、全容解明は、ずいぶん先のことになるかもしれませんが、少しでも早い調査が待たれます。

コメント