西福寺の鐘楼(幡豆郡吉良町吉田桐杭)
2006年12月12日 旅行
小山田地蔵さまを後にして、役場方面を目指してひたすら西南方向へ赤馬Go!を走らせました。小山田の神明社前を通り、妙隆寺の南を抜けると、やがて矢崎川に達します。川に架かる橋の名は、「血洗橋」。橋名の由来を調べるのを忘れてしまいましたが、いくさに関係でもあったのでしょうか・・・。ところで、先にUPした赤馬Go!の画像は、この橋の前で撮影したものです。
さらに西に進み、名鉄西尾線の踏み切りを越えると、地方道西尾吉良線に出る手前にひときわ目立つ鐘楼(県指定)が現れてきます。ここは浄土宗の北星山西福寺です。寺の創建は、建長6年(1254)で、当初は天台宗だった由。北条時頼が創建に関与したという言い伝えがありますが、それはあくまで言い伝えのようです。寺は14世紀に焼失するなど、浮き沈みもあったようです。
問題の鐘楼ですが、最初は岡崎の伊賀八幡宮にあったもので、将軍家光によって作られたようです。しかし維新後の廃仏毀釈の嵐の中、明治4年(1872)に西福寺が買い取り、移築したものです。しかし鐘自体は移されなかったようですね。
桁行三間、梁間二間、下層が袴腰付きの入母屋造の建造物です。屋根部分は現在瓦葺となっていますが、移築前は檜皮葺でした。
しばし時を経つのを忘れて、鐘楼を見上げていました。
さらに西に進み、名鉄西尾線の踏み切りを越えると、地方道西尾吉良線に出る手前にひときわ目立つ鐘楼(県指定)が現れてきます。ここは浄土宗の北星山西福寺です。寺の創建は、建長6年(1254)で、当初は天台宗だった由。北条時頼が創建に関与したという言い伝えがありますが、それはあくまで言い伝えのようです。寺は14世紀に焼失するなど、浮き沈みもあったようです。
問題の鐘楼ですが、最初は岡崎の伊賀八幡宮にあったもので、将軍家光によって作られたようです。しかし維新後の廃仏毀釈の嵐の中、明治4年(1872)に西福寺が買い取り、移築したものです。しかし鐘自体は移されなかったようですね。
桁行三間、梁間二間、下層が袴腰付きの入母屋造の建造物です。屋根部分は現在瓦葺となっていますが、移築前は檜皮葺でした。
しばし時を経つのを忘れて、鐘楼を見上げていました。
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