連歌師宗長滞在の地(豊橋市大村町勘太)
駿河今川氏のお抱え連歌師であった柴屋軒宗長(1448〜1532)は、島田の刀工五条義助の子として生まれました。駿河の今川義忠に仕え、18歳で出家した後も合戦にたびたび従軍。義忠が戦死すると、京都大徳寺の一休禅師に参禅し、連歌師宗祇に連歌を学び、ともに諸国を遍歴しました。今川氏親の陣僧、軍師としての活躍も見られ、連歌師として自由に往来し、敵情を偵察し、氏親に報告していたと思われます。
永正年間には、甲斐の武田信虎との和平工作にも奔走しています。まもなく宗長は、永正元年(1504)、宇津山山麓丸子に草庵(吐月峯柴屋寺)を構えました。
牧野古白が氏親の命により今橋城を築いたのが、ほぼ同時期の永正2年(1505)といわれています。翌年には古白は自害しますが、懇意の間柄にあった宗長が古白の死を悼み、経文を唱え、連歌百句をもって追福したとあります。
宗長は、晩年の大永2年(1522)から大永7年(1529)までの間、4度上洛・下向し、その旅を日記(「宗長手記」)にしたためています。その中でも古白を偲んでいます。

20数年前、岩波文庫版「宗長日記」(島津忠夫校注)を手にしたとき、東三河の諸領主との連歌を通じた交流の様子が窺われたいへん興味深く感じました。
市内大村町勘太にある曹洞宗大円山林広寺(創立慶長3年)は宗長の居住地であると伝わっています。交流が深かった牧野氏あたりが用意した滞在用の草庵でもあったのでしょうか。
小雨の降る中、訪なう人は誰もいません。勘太1号橋に佇み、晩年不遇に終わった宗長を偲んで、しばらく眺めてみました。なお寺の縁起を記した記念碑が境内に建てられています。

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