弘治年間の菅沼一族
最近戦国時代の菅沼・奥平氏関係の資料を整理しつつあります。史跡の再訪についても少しずつ始めました。

弘治年間は奥三河の奥平氏、菅沼氏にとって、激動期の幕開けでした。作手の奥平貞勝と田峯の菅沼定継が今川氏から離反し、尾張の織田氏になびきました。
弘治2年(1556)2月奥平氏は今川方の秦梨城(岡崎市)を攻めるなどしています。同年5月布里(旧鳳来町布里栗峯)において、定継(田峯城主)と袂を分かって今川に残った弟、定直(布里城主)、定氏(大野城主)、定仙(井代城主)が戦いましたが、弟たちは敗退。その後同年8月に入ると、今川方の菅沼一族、定村(野田城主)、新三左衛門定貴(宇利城主)、半五郎定満(山吉田城主)が雨山合戦(旧額田町)で討ち死。布里においては、定直が今川軍の助勢を得て巻き返しを図り、定継、左衛門次郎定俊、定村の弟・三右衛門定圓、傳一郎定自らと戦いました。結果、定継方は敗退。8月21日布里黒ヌタで討ち死しました。定圓は鳳来寺山麓椿坂、定自は与良木峠で討ち取られています。

(画像は布里城跡 平成14年撮影)

コメント

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ジョン・カモン
2012年3月4日10:40

はじめまして。
趣味で先祖ルーツ探しの冒険をしている者です。

実は昨日、初めて与良木峠のお地蔵さんにお会いして来ました。
ここで菅沼定自が討死にしたということでしょうか?
峠の直下(本郷側)の八ツ田で首が発見されたとか、そこで処刑されたとか?
もし、何かご存知でしたらお知らせ下さい。

また、その時「定自」は何歳とか妻子はいたのだろうか?
よろしくお願いいたします。

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倉次郎
2012年3月9日18:21

ジョン・カモンさん
はじめまして!ご来訪ありがとうございます。

明日(3月10日)の引越しを機にこのブログを閉鎖しようと思っていたところでした。
間に合ってよかった・・・。

ジョン・カモンさんが言われる与良木峠は東栄町の方ですね。
長篠合戦に敗れた勝頼軍が通った際に地蔵様の首が転げ落ちた(蹴り落としたのかな?)という言い伝えがあったように思います。

書籍等はすべて引越しの荷物に入ってしまい、定自公の年齢などは今は調べられません。申し訳ありません。
詳細がわかり、引越し先のネット環境も整ったらお知らせします。

ということで、しばらくまだ閉鎖はやめておきます。
何年放置していたのかな・・・(笑)

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ジョン・カモン
2012年3月10日21:42

倉次郎様

引越しですか、それは大変ですね。


書籍やブログなどで情報集め、現地に足を運んだりしています。
そんな中で、あなたの書かれている記事が整理されていて
わかりやすいと思っています。

菅沼の野田城主、定村の周辺を調べ始めました。、
ひょっとしたら、彼の兄弟の子孫かも知れないと想像し、
定円、定自公のことを、さらに定村の嫡子である
定盈の弟、虎之助のことなどにターゲット絞り込んでいます。

調べ様がなく、そこであなたにご教授いただきたい、
そのような理由でコメントしております。

引越し先で落ち着かれましたら、またご連絡いただけますか?
よろしくお願いいたします。


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ジョン・カモン
2012年8月24日20:49

倉次郎様

久しぶりとなります。
お引越し後、いかがお過ごしでしょうか?