菅沼氏の史跡巡り?
新城市片山に所用があった際に、以前から菅沼定継の墓碑(大谷城主菅沼定綱之墳)の所在を確認したいと考えていたことを思い出して、警察署の東方を探したところ、移転していることを知りました。地元で聞き取りをしようとしましたが、息子同伴であったため、あえなく断念しました。お寺さんで、だいたいの位置は確認していたのですが、無念・・・。リベンジするつもりです(笑)。
息子が城跡探検を強く所望したので、1時間限定(これ以上続けると息子のカラータイマーが点滅します)という条件つきで、北方に位置する大谷城跡を再訪することにしました。

田嶺城主であった菅沼大膳亮定広は永正年間、新城市上平井に大谷(おおや)城を築きましたが、その子定継は天文元年(1532)新城市石田字万福に新城(しんじょう)を築きます。その後定継は今川に離反して織田についたため、弘治二年(1556)の布里合戦で敗れ、自刃したといわれています。

では大谷城はどこにあったのかといえば、定説はないようです。
国広城の別称もあります。新城市が建てた大谷城跡碑は、大谷の丘陵地山林(比高60m)にあります。こちらは「愛知県中世城館調査報告?」では伝承地扱いとなっています。

また上平井国広にある末広稲荷あたり(比高さ10m)が国広城跡といわれ、字大谷の南東段丘南端に位置します。さらに平井字野地の平井村古屋敷跡も含めるとかなりややこしくなってしまいます。「愛知県中世城館調査報告?」では、後の二城の城主は林雅楽、彦坂九兵衛などとしています。

末広稲荷さまと道を挟んだ西側の丘陵がこの地が高台にあったことを示しています。稲荷さまの北側を堀に見えなくもないですが、地形の変化を考えると、疑問です。周辺は圃場整備事業のためかなり削り取られたようです。そういえばしばらく前の地図に採土場と記載されていたような記憶があります。

(画像は、北側から末広稲荷方向を望んだものです。左手の林が稲荷、右手の丘陵が採土されて残ったものです)

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