菅沼氏の史跡巡り?
前日の雨のため大谷城の登り道(東南側の民家の脇から上がります)は若干ぬかるんでいました。山林管理用の登山道でしょうか。この山道の左上方に位置する山頂北側(標高124m)の削平地に、祠、石像(役行者でしょうか?)と並んで城跡碑が建てられています。文字はかなり消えかかっています。

北方を中心として小郭、堀切、土橋状の遺構の類ではないかと思われる形状も見受けられましたが、全般に自然崩壊も進んでいるように思われますので、確証は得られません。南前方に位置する国広城(字国広にある丘陵地)との関連性もあるように思われますが、謎が多いですね。

もう少し時間をかけて調査したいところでしたが、倒木などの障害物で息子がパニックを起こしたために、15分ほどで散策を終了し、そのまま南下し土地改良碑前で小休止。ここからは円の平城跡が目と鼻の先ですが、予定外の行動は禁物ですので、そのまま息子に急き立てられてユニーに向かいました。

(画像は、末広稲荷方面から望んだ大谷城跡です)

コメント

nophoto
kourei
2007年1月28日22:51

「山の大谷城」は大昔に行きましたが、麓の住む人が「標柱立てるときに、どっちか迷とったよ」と言ってました。
国広城のほうとどっち?とする説もあったようですね。
山のほうはそれほど明確な遺構が残らないので、はっきりしませんね。でも、同一といってもよい関係の城でしょうね。
十数年前、国広城が削られ始めたとき、辺りを見てみると土器が落ちてました。
その後薄っぺらい国広遺跡調査報告書が発行されましたが、それほど検出されたものはなかったようですね。
あの辺りのお城は回り始めの頃ほとんど行きましたが、徳定城はまだ、「城」という地名があるだけといわれていた頃で、行かずじまいとなりました。何か遺構があるらしいですね。

倉次郎
倉次郎
2007年1月28日23:16

大昔に行かれていたんですか?それもほとんど回られていたとは・・・。koureiさんは、すごいですね!
私は、長篠城址史跡保存館作成(昭和47年ころだったような・・・)の史跡案内地図に大谷城、国広城などが載っていたので、設楽原古戦場を巡るついでに行ったのが初めてでした。
徳定城(塩瀬古屋敷)跡は、民家の裏手に曲輪らしき一画と土塁上のモノが残っていました。周囲は民家や畑地になっていて、私の目にはどれが遺構だかはっきりわかりませんでした。屋敷地の西方から北側に回りこんでいる現在の道が堀切的な存在だったのかな?といった程度の感想しかありません。
屋敷神様をお参りしたうえで見学させていただきました。

nophoto
kourei
2007年1月29日0:15

徳定城の情報教えていただき、ありがとうございます。
新城は…作手や鳳来などはすべて回れてはいませんが、旧市域は手元の日記を見るとその徳定城以外はすべて行ったことになってますね。もう忘れ初めてますが、、
当時はカメラを持っていなかったので、今は変わり果てた場所もあり、残念です。
その代わりに城郭の図面をスケッチして喜んでました(笑)
もうすでに何もなくなってしまったお城は、辺りに住むお年寄に昔を思い出してもらって、堀や土塁の配置をかいてもらったことを懐かしく思います。

倉次郎
倉次郎
2007年1月29日0:41

しばらく前の情報ですので、今は遺構がどうなっているかわかりません。参考になりましたかどうか・・・。
徳定城以外ぜんぶ行かれたのですか?すごいですね!
私は杉山や野田あたりの複数の屋敷跡や吉川古屋敷などは手つかずです。またお教えください。

スケッチされていたのですか!縄張図ではなく?
城跡の破壊が進む中で、たいへん貴重な記録になりますね。ぜひ将来公開してください。

nophoto
kourei
2007年1月29日19:31

徳定集落の西の三方が山に囲まれたところ?ですよね。
塩瀬氏といえば、杉山中屋居館もそうでしたね。
そこに住むご子孫とお話ししたことがありました。
「史跡案内地図」は、ウグイス色のケースに入ったものでしょうか?それなら私も持ってます♪
ところで、「設楽氏陣屋」のこと、知ってらっしゃいますか?
あまりにも皆さん触れられてないので、どうなのかなと思いまして、、
新城には誰もが触れるお城と、誰も触れない城や屋敷とかがあって、面白いですね。
またそれらも順時アップしていこうと思います。

倉次郎
倉次郎
2007年1月30日20:12

そうです♪
塩瀬氏関係ですね。旧鳳来町塩瀬の塩瀬村古城、八束穂の下々村古屋敷などもありますね。

ウグイス色の地図です。火縄銃武者と火おんどりのイラストが入ったものです。3代目の地図もボロボロになり、セロテープで継ぎ接ぎされています(笑)。

陣屋は竹広のものですね。中2の時に訪ねた峯○さんのお宅には井戸跡があったと思います。

koureiさんの画像UP、とても楽しみにしています♪
私も東三河も含めて城館の画像をCDに保存してありますが、昨年中UPしていたアルバムのいくつかを失ってしまいました。家族からデジカメ画像の取り込み禁止令が出ているため、UPは数年先になりそうです(泣)。

nophoto
kourei
2007年1月30日21:57

塩瀬氏、富永氏、今泉氏など…菅沼氏との関わりの武士達ばかりですね。
まさに菅沼王国!
またお教えください。

火縄銃武者と火おんどりの地図、私は初代でもってますが、いい味となってます(笑)
あの地図のもう少し西側や南側がほしいところですね。

陣屋の石碑が抜かれてあって、歴史のことに関してあまり好ましく思ってないというのを聞き、それ以来触れていませんが、誰も何も取り上げないので、どうなのかな?と思いまして…

昔の記録類が、私が一度家をあけていた間に?になってしまっているので、見つかり次第UPしていきたいと思いますが、期待されるほどのものでもないかもしれません(笑)
ただ、土地の古老などからの貴重な話などはとても大事なものだと思っています。
まわりの皆さんよりデジタル化が遅かったので、必死です(笑)

倉次郎
倉次郎
2007年1月30日23:27

城所氏、中尾氏、兵藤氏なども菅沼臣下ですね!
これは番外ですが、真田十勇士の由利鎌之介は、野田の菅沼定盈臣下だったとされていますね。

地図は、西は野田あたりまでほしかったですね。欲をいえばきりがないですが(笑)。

陣屋の情報ありがとうございます。私も今後取り上げたいと思っています。

私も中高大時代に撮影した写真をUPしたいと思います。録音カセットを持っては現地に取材に出かけていた中高時代を懐かしく思っています。当時の取材テープは宝物にしています。大学時代は8ミリビデオと一眼レフが中心でした。