野田城址にて
三河野田城(新城市豊島)といえば、元亀4年の武田信玄による攻撃が有名ですが、この城は数々の争奪戦の舞台となっています。夕方に城跡に立寄った際に、菅沼定盈の足跡や牛久保牧野方の稲垣一族の討ち死に少々触れてみたくなりました。

今川義元が桶狭間で戦死した翌永禄4年(1561)、松平氏が今川から離反すると、野田城主であった菅沼定盈も松平氏(元康)に従いました。そこで義元の子氏真は、同年7月29日(あるいは9月下旬)吉田城代の大原資良(小原鎮実)に命じて野田城を攻めさせました。牛久保・二連木・伊奈の混成軍を率いた今川軍の攻撃に対して、定盈は援軍の西郷孫九郎元正を二の丸に配し、伊賀の忍者の夜陰に乗じた攻撃を撃退するなどしました。やがて今川方から扱いが入り、今川の大軍に敵わないとみた定盈は城を明け渡して八名郡西郷に逃れました。その後、今川方の牧野出羽守と右馬亮貞成を先陣として攻め入り、逆に撃退されています。しかし、その後の今川方の執拗な攻撃の前に、西郷氏の五本松と月ケ谷の両城が落ちています。
永禄5年6月2日夜、片時も野田城の奪還を忘れなかった定盈軍が攻め入り、奪還に成功します。その際、今川方の城代稲垣半六郎氏俊(重賢三男)などが討ち死にしました。

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