石田合戦と稲垣十郎左衛門
(先回の続きから)
永禄5年6月2日の菅沼定盈勢の急襲により、稲垣半六郎氏俊らの戦死者を出した今川勢は野田城を捨てて敗走します。城の奪還を試みようとしましたが、それもかなわず、今度は野田城の東方に位置する石田の新城(新城古城)を攻め取ろうとします。
石田の新城の城主の菅沼定氏は、石田の伝寿山に物見を出して兵を忍ばせて攻め、菅沼十郎兵衛が鈴木甚平を、井道砦の菅沼伊賀守定勝が松井兵右衛門を討ち取ります。城兵も打って出て、稲垣十郎左衛門、倉川弥八郎などを討ち取りました。
一説では、この石田合戦が永禄4年の出来事であり、野田城の菅沼定盈を攻め開城させた勢いで石田の新城も攻めたという話もあります。
私の勉強不足で、稲垣十郎左衛門の系譜ははっきりとわかりませんが、おそらく今川勢のうち牛久保牧野方の稲垣氏一族であったと考えられます。石田合戦で討ち死にした十郎左衛門は、石田の黒坂の地に葬られます。その塚に、後年狐が住みついたという伝承があります。
いまも新城変電所の南西のアパート駐車場の一角に小さな塚があり、その上に天明年間建立の小さな祠が祀られており、狐塚と称されています。小さな赤鳥居とお狐様が印象的でした。

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