今回の滞在先の目と鼻の先にある高崎城跡は、学生時代にも何度か立寄っていましたが、天気も良く、私の城の虫?が疼き出してしまい、出勤前のわずかの時間を利用して散策してきました。
高崎城は烏川左岸沿いの平山城で、和田氏によって築かれた和田城が前身です(長篠設楽原の戦いで和田業繁が戦死)。家康の関東入府に従った井伊直政はまず榛名山麓の箕輪城に封じられましたが、中山道の要であった和田宿が重視され、慶長3年(1598)和田城を大改築して入城。城を囲郭式に構え、町家や寺院を移転させて遠構えにし、城下を整備しました。
明治維新後に、歩兵15連隊の兵営となったことで、城の建物は取り壊され、近年は都市化が急速に進み公共施設などが集まり、三の丸の周囲の土塁や堀のほかは見る影もない状態となりました。
旧大手門跡付近、群馬の音楽の殿堂・群馬音楽センターの東に、江戸初期に作られたという乾櫓が昭和52年に移築・復元されています。民家の納屋として使用されていたようです。貴重な遺構であり県重文となっていますが、櫓下の石垣(本来高崎城には石垣はありません)は模造です。また乾櫓の西隣には、大手門南方の出枡形北側にあった東門が昭和55年に移築・復元されています。乾櫓・東門裏手に櫓の説明板などがあり、土塁も見られます。
下調べもしていなかったので、旧和田城の櫓台跡を訪ねようと出かけてしまいましたが、国道の建設工事のため既に滅失してしまったようです。市指定にもなっていたようなのですが、非常に残念なことです。
高崎城は烏川左岸沿いの平山城で、和田氏によって築かれた和田城が前身です(長篠設楽原の戦いで和田業繁が戦死)。家康の関東入府に従った井伊直政はまず榛名山麓の箕輪城に封じられましたが、中山道の要であった和田宿が重視され、慶長3年(1598)和田城を大改築して入城。城を囲郭式に構え、町家や寺院を移転させて遠構えにし、城下を整備しました。
明治維新後に、歩兵15連隊の兵営となったことで、城の建物は取り壊され、近年は都市化が急速に進み公共施設などが集まり、三の丸の周囲の土塁や堀のほかは見る影もない状態となりました。
旧大手門跡付近、群馬の音楽の殿堂・群馬音楽センターの東に、江戸初期に作られたという乾櫓が昭和52年に移築・復元されています。民家の納屋として使用されていたようです。貴重な遺構であり県重文となっていますが、櫓下の石垣(本来高崎城には石垣はありません)は模造です。また乾櫓の西隣には、大手門南方の出枡形北側にあった東門が昭和55年に移築・復元されています。乾櫓・東門裏手に櫓の説明板などがあり、土塁も見られます。
下調べもしていなかったので、旧和田城の櫓台跡を訪ねようと出かけてしまいましたが、国道の建設工事のため既に滅失してしまったようです。市指定にもなっていたようなのですが、非常に残念なことです。
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