保渡田城跡(高崎市保渡田町)
2007年3月15日 城跡散策
(画像は、主郭中央あたりから南方の櫓台跡(天守山)を望んだものです)
上州は東国における有数の古墳王国です。このあたり国史跡の保渡田古墳群も有名です。榛名山の南東は車郡(くるまのさと)と言われ、群馬の語源にもなったようです。
先日箕輪城跡から3kmほど歩き続けて辿りついたのが、ここ旧群馬町保渡田の地です。かみつけの里博物館からほど近い場所で、この地の出身の歌人・土屋文明の功績を称えた記念文学館が近くに建っています。
7世紀前後の築造と考えられる画像の天子(守)塚古墳は円墳でしょうか。高さ5mほどの墳丘上のわずかの空間には庚申塔が乱立しています。ここが保渡田城の櫓台跡(天守山)であり、北側の集会所やブランコなどの遊具がある小公園部分が主郭部分であるといわれます。永禄9年(1566)武田信玄が長野氏の箕輪城を落とし、内藤昌秀(昌豊)を城代としたが、昌秀はここに城を築きました。長篠設楽原で昌秀が戦死すると、子の昌月が跡を継ぎましたが、天正17年(1589)7月、中川武蔵守に攻められて、善竜寺(昌月開基)で自刃したとも言われます。
天守山の南方が大手口といわれます。北城側は畑地や民家に取り囲まれていて、堀跡などは明確に残っていません。
上州は東国における有数の古墳王国です。このあたり国史跡の保渡田古墳群も有名です。榛名山の南東は車郡(くるまのさと)と言われ、群馬の語源にもなったようです。
先日箕輪城跡から3kmほど歩き続けて辿りついたのが、ここ旧群馬町保渡田の地です。かみつけの里博物館からほど近い場所で、この地の出身の歌人・土屋文明の功績を称えた記念文学館が近くに建っています。
7世紀前後の築造と考えられる画像の天子(守)塚古墳は円墳でしょうか。高さ5mほどの墳丘上のわずかの空間には庚申塔が乱立しています。ここが保渡田城の櫓台跡(天守山)であり、北側の集会所やブランコなどの遊具がある小公園部分が主郭部分であるといわれます。永禄9年(1566)武田信玄が長野氏の箕輪城を落とし、内藤昌秀(昌豊)を城代としたが、昌秀はここに城を築きました。長篠設楽原で昌秀が戦死すると、子の昌月が跡を継ぎましたが、天正17年(1589)7月、中川武蔵守に攻められて、善竜寺(昌月開基)で自刃したとも言われます。
天守山の南方が大手口といわれます。北城側は畑地や民家に取り囲まれていて、堀跡などは明確に残っていません。
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