天祐山公田院仁叟寺(群馬県多野郡吉井町)
2007年4月3日 趣味 コメント (10)
(画像は、仁叟寺山門 平成19年3月11日撮影)
天祐山公田院仁叟寺は、応永年間ころ、下奥平公田に奥平貞訓が創建し、大永2年(1522)に現在の吉井町神保に寺を移し、雙林寺四世の高僧直翁裔正禅師を請して開山されています。開山以来、長根城主小幡氏、宮崎城主奥平氏、吉井城主菅沼氏、地頭溝口氏・長谷川氏などの帰依と保護を受けました。徳川家光の時代に朱印25石を賜りました。
表参道から総門(寛文3年建立)をくぐると、堂々とした構えの山門(宝暦11年建立)、本堂と続きます。本堂脇のカヤの古木(樹齢500年以上)が聳え立っています。訪れた日は大般若会で賑わっていました。整備された奥平貞訓の墓所を参拝し、吉井町内の散策を終えました。本寺には貴重な中世文書などが伝わっています。寺史の編纂はほぼ終了したようですので、発刊が楽しみです。
天祐山公田院仁叟寺は、応永年間ころ、下奥平公田に奥平貞訓が創建し、大永2年(1522)に現在の吉井町神保に寺を移し、雙林寺四世の高僧直翁裔正禅師を請して開山されています。開山以来、長根城主小幡氏、宮崎城主奥平氏、吉井城主菅沼氏、地頭溝口氏・長谷川氏などの帰依と保護を受けました。徳川家光の時代に朱印25石を賜りました。
表参道から総門(寛文3年建立)をくぐると、堂々とした構えの山門(宝暦11年建立)、本堂と続きます。本堂脇のカヤの古木(樹齢500年以上)が聳え立っています。訪れた日は大般若会で賑わっていました。整備された奥平貞訓の墓所を参拝し、吉井町内の散策を終えました。本寺には貴重な中世文書などが伝わっています。寺史の編纂はほぼ終了したようですので、発刊が楽しみです。
コメント
我が家の菩提寺が「天祐寺」だったので、、
上州地方は私のあまり知らない地域ですが、我が家に吉井町の「多胡碑」を拓本にした江戸時代の和本があります。
あと、渥美郡神社誌という明治頃に手書きで書かれた地図付きの書物もあるのですが、一度知り合いから「スポンサーを募って出版してみたら?」という話しはあったのですが、やはり予算が…。
江戸期の多胡碑拓本ですか。稀少価値がありそうですね。優れた書体なので、書の手本として流通していたのでしょうか。
神社誌面白そうですね。地図付きというのもかなり珍しいのではないですか。豊橋、田原で郷土史料として把握されているのかわかりませんが、蔵書に入っていなければぜひkoureiさんに公けにしてほしいです♪
菩提寺の天祐寺由緒書によると、「天平七年八月伊勢国鈴鹿郡之川上二於テ、行基菩薩ヲ結テ天祐ト号ス、自尊像ヲ作テ安置ス」とあります。その後応永15年に我が家の先祖が念持仏とした後、伊予へ持っていったそうです。
神社誌ですが、渥美郡112社、宝飯郡神社誌には17社が記載されています。
以前、くらじろうさんならお知り合いかもしれませんが、豊川の松山さんに見てもらったことがありました。
いずれ、スキャンして順にアップしてみます。
鈴鹿郡川上というのはどのあたりでしょうか。応永の終わりといえば義満将軍の頃ですね。念持仏ということは、ご先祖さまは、もしややんごとなきお方でいらっしゃいましたか。
かなりの寺社数ですね。UP楽しみにしております。
南北朝から室町頃まで、付近に居たようです。
その頃伊予でウジャウジャ居た一族の端くれが我が家です。
細川氏が伊予に攻め込んだことによって、一族が散らばり伊勢の地にご縁ができたようです。
やはり地域的にも南朝方の流れでしょうか。時期的に伊予細川といえば河野氏との抗争などでかなり混乱していた時期にあたりそうですね。
この時代はこの地方でも謎のことが多く、東三河に至ってはいささか伝説的なところが多いですね。
東三河は史料が乏しいですし、伝承の域ですね。高井氏あたりにも興味があるんですが・・・。
高井氏は土岐氏の流れを汲むという伝承もあるようですが、どうなんでしょう。
土岐氏の末裔の方にお尋ねしたことがありましたが、回答が返ってきません(笑)
koureiさんが先日UPされていた久々利城関係の土岐三河守悪五郎や土岐一族の八居氏の流れとする説もあるようですが、裏づけは難しいのではないでしょうか。