勘助祭

2006年10月11日 人物
勘助祭
10月9日JR飯田線牛久保駅北、豊川市牛久保町八幡口にある武運山長谷寺で山本勘助祭が営まれました。命日に合わせて30年以上続いています。遺髪塚の前で墓前祭が執り行われ、守り本尊であったといわれる摩利支天像が公開されました。
来年のNHK大河ドラマ「風林火山」を前に幟も立てられています。
遺髪塚は私が中学生のころは、異様な積み方が施されていたように記憶しています。火輪の下に水輪が3つ団子状態に積まれていました。長年の間に崩落して、積み間違えられることはよくあることです。中学生ながら、うーんこういう五輪もあるのかななんて思って見ていました。
牧野新次郎成勝について?
宮嶋郷家伝書記においては、牧野田三信成以下一族が討ち死にした吉田合戦を天文元年(1532)5月27日のこととし、「牧野新三成村は赤岩の法言寺へ落ち延びて後は戸田家を継ぐと云り。新次郎成勝は散兵を斂め、勝ち誇ったる岡崎勢を切脱て牛久保へ帰陣・・・」と記しており、入城した松平清康が3日滞在するうちに仁連木の戸田氏、牛久保の牧野新次郎成勝が降伏したと伝える。参河国聞書においても、日付は28日のこととしながらも牧野新三成村が赤岩に退いたとし、牧野新次成次が牛久保に帰陣したとしている。新次郎と新三について、先に述べた三河国吉田名縦綜録との齟齬が見られる。
吉田合戦直前までは、吉田城に牧野田三信成、一色城に牧野成勝、牛久保城に信成の子息とされる牧野出羽守保成、市田(八幡近き)には牧野四郎左衛門、伊奈には牧野平三郎というように一族が繁栄していたことになる。
牛窪密談記などによると、永禄6年(1563)3月今川方にあった牛久保城は松平元康に攻められ落ちるが、城主牧野保成は松井左近に槍で突かれて自害したとしている。かねてから松平氏に心を寄せていた牧野(新次郎)民部丞成継(成勝)は、病気と称して家督を譲った嫡子(新次郎)右馬允成守(成定)を立てて参戦しなかったようである。永禄5年に富永・広瀬、八幡合戦などで勲功を立てた成定であったが、前年永禄4年松平方の荒川・酒井軍に攻められて、持ち場である西条城を捨てて牛久保に帰陣している。
密談記では、成勝が保成の死後ほどなく死亡し、嫡子成守は遠州宇津山に退き、岡崎に内通しながらも表向きは(今川側の)牛久保方(保成の子息成元)の旗色を示していたように記している。
永禄8年2月まで永禄8年(1565)吉田城を無血開城させた牧野成定は子息新次郎成定(9歳、後の康成)を岡崎に人質として出し、翌年10月23日42歳で病没した。
保成の死についてはさまざまな説があるが、成勝の死についても単なる病死ではないような印象を受けてしまう(かなり高齢だったのかな?)のは私だけであろうか。
牧野新次郎成勝について
今川氏の命により今橋城を築いた牧野古白をはじめとする牧野一族の系譜はたいへん混乱しているが、かえってそれが今川、松平、戸田氏などの勢力の狭間で一族が生き残りをかけて軌跡を表わしているように思えてならない。
寛政重修諸家譜、宮島傳記のように、古白の子供を成三(三成)とし、その弟を田三・信成としているものもある。病弱であった成三が、弟を養子にして家督を譲ったとされる。
将軍家初代家康やその祖父・清康に弓を引いた一族を公の場で列挙することは憚られるのは当然の理かもしれない。吉田に改められた城にあって、清康に攻め滅ぼされた(享禄2年説、天文元年説、両年の2回戦闘説あり)信成以下の牧野一族や永禄6年に元康(後の家康)に攻められた牛久保城主出羽守保成(負傷がもとで死亡した説、暗殺説あり)などもそれにあたる。
三河物語では、清康による攻城の際に、篭城策を廃して出撃した一族を伝蔵(伝三、田三)、伝次(成高)、新蔵(成村)、新次(成勝か?)兄弟としている。宮島傳記では、清康に寝返った正岡の伝兵衛尉成敏も兄弟としている。
三河国吉田名縦綜禄には、牧野兄弟のうち新次郎だけが、討ち死にと偽って浅瀬を渡り、赤岩の法言寺(現在の赤岩寺、裏山は赤岩山城)に忍居し、後に戸田家に入ったという記述がなされている。また吉田城の城代(疑問が残るが)となった牧野成敏の家臣である戸田新次郎、宗兵衛等が松平清康横死の際に田原の戸田氏と図って吉田城を攻略したとの記述もある。この新次郎がともに牧野新次郎成勝(民部丞)と仮定すれば、成勝=氏勝とし、氏勝−貞成−成定−康成という流れが想定されるのであろうか。もしそうならば、吉田城から牧野一族(成三)によって追い出された元城主の戸田金七郎宣成の再入城が牧野一族によってなされたことになり、皮肉なことである。
確証はなく、あくまで想像の範囲だが、想像をめぐらせることはたいへん楽しい。
(未整理中につき、つづく)
早川孝太郎の「猪鹿狸」にも出てくるノッコシ道と菅沼琉山(貞俊)関係の調査のため鳳来町に出かけました。
長篠の大通寺には林伊太郎撰の琉山頌徳碑があります。長篠の菅沼正貞は武田から徳川に寝返ったという理由で小諸で幽閉されました。徳川への帰属を勧めたおじ琉山は吉村の地に隠棲しました。まもなく琉山は亡くなりますが、どのような思いを抱いていたのでしょうか。琉山の子孫である乗本小川の菅沼氏が先祖の頌徳碑建立を依頼しています。

ノッコシ道は大通寺山の裏手を通って医王寺方面に抜けているため、ついでに長篠城攻めのため構築された武田方の陣城も散策することになりました。現在は陣城の説明板や遊歩道なども整備されてとても歩きやすくなっています。
午後からは医王寺前を抜けて富保方面に移動。西ノ久保の慶蔵院や琉山のものと伝わる立派な五輪塔他に礼拝しました。また老人憩の家の北西にあたる吉村古屋敷=菅沼弾正屋敷(現在宅地)及びその背後にある鉢盛山城址を散策。その後長篠方面に移動しました。途中首切谷下という土地にさしかかりましたが、余りに生々しい地名にそそくさと立ち去りました。
今日は城址巡りではないのですが、妻子とともに豊川市八幡町にある西明寺に出かけることになりました。ベルツ博士と山本勘助の墓を訪ねたあとで、芭蕉の陽炎句碑など周辺を散策しました。
息子の希望もあって、そのあとは新城市の設楽原古戦場へ。なんでも資料館の屋上から古戦場跡を眺めるのが好きなようです。心も落ち着くのだそうです。
細君から「ほんとうに泣ける話」(ぶんか社)VOL15を見せられた。女性(少女?)マンガはちょっとひけてしまうけど、巻頭カラーの「風よ、風よ・・・」を読めと言うので見ました。『江崎巡査』とあったので、すぐにあの話だとわかりました。作者の永矢洋子さんは巡査の正義感・責任感の強さや妻の愛など、よく描いているなあと感心しました!そして落涙・・・。そういえば地元新聞でもこのマンガのことを報じていました。

豊橋警察署田原分署の江崎邦助巡査は、明治19年に渥美の堀切で発生したコレラの防疫に命がけであたり、不幸にも罹患し感染を防ぐために人を遠ざけ25歳の若さで亡くなりました。新婚間もなかったのですが、看病にあたった妻も罹患し、後を追うように19歳で亡くなりました。
当時猛威を振るっていたコレラは現在と違って恐るべき病気。まだまだ迷信などに囚われていた時代で、公衆衛生の整備もなされておらず、防疫作業はさぞ大変だったでしょう。尊い犠牲に合掌。
夫妻は蔵王山権現墓地に静かに眠っています。
今日は学校行事の合間を縫って、尾張戸部城主であった戸部新左衛門の墓を訪ねました。昭和50年代まではきちんとした墓石と呼べるようなものはなかったのですが、共同墓地内に立派な五輪塔が建てられました。しかし目印は何もなく、供花も枯れて寂しい状態でした。
戸部新左衛門は今川に属していましたが、織田信長の策略にはまって織田に寝返ったと疑われ、吉田城に出向いたところを義元に殺害されたと言われます。暴君みたいな伝承もあったりして実在について若干疑問もあり、山口何某と同一人物視もされていて謎の武将です。関連史跡がある笠寺には一度出向いてみたいです。
山本勘介といえば武田家臣、信玄の知恵袋として有名ですが、存在自体も疑問視されていました。
三河牛窪(現在の愛知県豊川市牛久保)の出身とされ、諸国を巡って武芸百般を体得し、板垣信方に推挙され召抱えられたこと、川中島での作戦失敗、戦死と逸話は多く語られています。
豊川市には遺髪塚など縁の史跡もありますが、昨日は豊橋市賀茂町にある生誕地と伝承が残る史跡を訪ねました。大正時代に建立された記念碑と曹洞宗本願寺に墓碑が残っているだけですが、勘介好きな私にとっては満足でした。
勘介を演じた俳優は数多くいますが、映画「風林火山」の三船敏郎が印象に残っています。史実は史実で興味ありますが、勘介の位置付けがはっきりしてしまうと、おそらく従来のイメ−ジとかけ離れたものになりそうです。明らかにされないほうが夢があっていいのかもしれません。(^_^;)

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