若林城跡(過去の城巡りから)
[若林城跡](若林屋敷)
 宮城県仙台市若林区古城  

伊達政宗公が、寛永5年(1628)完成させ、寛永13年(1636)に70歳で亡くなるまでの間、日常生活をこの城で送りました。
家臣の屋敷などが立ち並び、城下町を形成していたようです。
城は東西約400m、南北約300mの平城で、周囲には土塁が築かれ、その外は幅約25mの堀で囲まれていました。政宗公が亡くなると,廃城となり、建物の一部が仙台城の二の丸に移されました。土塁や堀跡が残ってはいますが、城跡は矯正施設の敷地内であるため、見学は出来ません。
若林区にある松音寺の山門(市指定)は若林城の遺構であると言われます。
訪れたのは、11月の午後5時過ぎ。日暮れ時でしたし、背広姿とはいえ、うろうろしていたので、おそらく不審者と思われていたかもしれませんね(笑)。
(画像は、2005年11月13日午後5時01分 携帯撮影)
長篠城跡の119系
火曜日は長篠城址史跡保存館は休館日。さらに平日の夕暮れということもあって城跡は静かなものです。一人携帯撮影している背広姿のおかしなオヤジと思われたかもしれません(笑)。
対岸の乗本方面の砦や野牛郭あたりを眺めていると、寒狭川を渡る鉄橋を越えて飯田線の主力車両119系が長篠城址に侵入?してきました。
私が大学に入学した頃に119系が導入されたと思うので、ぼちぼち20年以上走っていることになります。高校時代は80系が唯一飯田線で走っていた時期にあたります。小学生時代は確か車内販売をやっていた80系の準急伊那が走っていました。
こども時代は、長期の休みには東栄町に飯田線で通っていましたので、クハユニ56など旧型国電や準急伊那の思い出が今も強く残っています。
菅沼氏の史跡巡り?
前日の雨のため大谷城の登り道(東南側の民家の脇から上がります)は若干ぬかるんでいました。山林管理用の登山道でしょうか。この山道の左上方に位置する山頂北側(標高124m)の削平地に、祠、石像(役行者でしょうか?)と並んで城跡碑が建てられています。文字はかなり消えかかっています。

北方を中心として小郭、堀切、土橋状の遺構の類ではないかと思われる形状も見受けられましたが、全般に自然崩壊も進んでいるように思われますので、確証は得られません。南前方に位置する国広城(字国広にある丘陵地)との関連性もあるように思われますが、謎が多いですね。

もう少し時間をかけて調査したいところでしたが、倒木などの障害物で息子がパニックを起こしたために、15分ほどで散策を終了し、そのまま南下し土地改良碑前で小休止。ここからは円の平城跡が目と鼻の先ですが、予定外の行動は禁物ですので、そのまま息子に急き立てられてユニーに向かいました。

(画像は、末広稲荷方面から望んだ大谷城跡です)
菅沼氏の史跡巡り?
新城市片山に所用があった際に、以前から菅沼定継の墓碑(大谷城主菅沼定綱之墳)の所在を確認したいと考えていたことを思い出して、警察署の東方を探したところ、移転していることを知りました。地元で聞き取りをしようとしましたが、息子同伴であったため、あえなく断念しました。お寺さんで、だいたいの位置は確認していたのですが、無念・・・。リベンジするつもりです(笑)。
息子が城跡探検を強く所望したので、1時間限定(これ以上続けると息子のカラータイマーが点滅します)という条件つきで、北方に位置する大谷城跡を再訪することにしました。

田嶺城主であった菅沼大膳亮定広は永正年間、新城市上平井に大谷(おおや)城を築きましたが、その子定継は天文元年(1532)新城市石田字万福に新城(しんじょう)を築きます。その後定継は今川に離反して織田についたため、弘治二年(1556)の布里合戦で敗れ、自刃したといわれています。

では大谷城はどこにあったのかといえば、定説はないようです。
国広城の別称もあります。新城市が建てた大谷城跡碑は、大谷の丘陵地山林(比高60m)にあります。こちらは「愛知県中世城館調査報告?」では伝承地扱いとなっています。

また上平井国広にある末広稲荷あたり(比高さ10m)が国広城跡といわれ、字大谷の南東段丘南端に位置します。さらに平井字野地の平井村古屋敷跡も含めるとかなりややこしくなってしまいます。「愛知県中世城館調査報告?」では、後の二城の城主は林雅楽、彦坂九兵衛などとしています。

末広稲荷さまと道を挟んだ西側の丘陵がこの地が高台にあったことを示しています。稲荷さまの北側を堀に見えなくもないですが、地形の変化を考えると、疑問です。周辺は圃場整備事業のためかなり削り取られたようです。そういえばしばらく前の地図に採土場と記載されていたような記憶があります。

(画像は、北側から末広稲荷方向を望んだものです。左手の林が稲荷、右手の丘陵が採土されて残ったものです)
芝屋村古屋敷(豊橋市大村町地ノ神)
三河国二葉松などに武田家重臣の山縣三郎兵衛の居住と伝える芝屋村古屋敷の所在は遺構もなく確定できていませんが、大村町地ノ神付近であると考えられます。武田の東三河進出時期を考えれば、元亀・天正年間に、二連木・吉田城攻めに際して築かれたのでしょうか・・・。

現在の大村町は柴屋村・大磯村・沖木村・大蚊里村が合併したものです。柴屋の名称は、牧野氏などとも交流があった連歌師柴屋軒宗長の居住に由来しているといいます。
目標がないので、大村小学校敷地に接して鎮座している柴屋神社境内を撮影しました。この豊川右岸にあたる大村地区にも霞堤が築かれており、地ノ神は乗越堤のすぐ南側に位置しているので、豊川の洪水により城館遺構が破壊されたとしても不思議ではありません。
豊橋百科事典でも、県道豊橋豊川線の反対側に「字高之城」(大村町桜島信号の西側)という地域があることを指摘しているように、こちらも芝村古屋敷に関連した地名の名残なのか、大村古屋敷と呼ばれる別の城館に由来するものなのか気になるところです。
幡豆の古城?欠城
当地方の小笠原氏には、摂津守、安芸守、和泉守などの系統があるようです。和泉守系統は西尾市の糟塚砦の三九郎が知られています(糟塚砦をはじめ西尾市の城館画像も復活させるつもりでいます。PCの環境が整ったら、改めて別HPでUPしたいと思います)。

安芸守系統の左衛門佐広重、摂津守系統の新九郎安元(のち康元、富田新九郎)は三河一向一揆等の戦功により、家康から寺部城と欠城を安堵されています。安元は当初富田新九郎と名乗り、欠城主の小笠原氏に婿養子に入ったという話もありますが、私の勉強不足で詳細はわかりません。安元は寺部城・欠城どちらの城主であったことがあるようです。当地の小笠原氏は、家康に仕えた時期がそれぞれの系統ごとで異なることから、一族は一枚岩でなく、今川氏と松平氏の狭間で揺れ動いたように思われます。

さて欠城ですが、欠村城、掛城、磯城、幡豆城、西戸城など様々に呼称されています。場所はきちんと特定されておらず、穴観音のある南西あたりではないかと言われています。欠城が寺部城の出城的な存在であった可能性もありますし、欠城の城名が一定していないので、複数の砦があった可能性も否定できません。地元の方に尋ねても、城名もまちまちで、阿弥陀寺あたりにあったという話も出ていました。

穴観音というのは、5C後半に築造された中之郷古墳(横穴式石室あり)の左側のお堂に祀られている聖観世音さまですが、明暦年間にこの古墳で見つかったもので、高さ30cmほどの大きさだそうです。小笠原民部の持仏とされていたと伝わります。お堂の額には、「西戸城穴観音」と書かれています。
三河湾を見下ろす高台にあり、民部坂を降りていけば海はすぐそこまで迫っています。
周囲は住宅地になっており、城関係の遺構は見当たりません。
(現地には穴観音と中之郷古墳の説明板があり、磯城が穴観音の南西部にあったとの記載があります)

○○神社にて祭礼の片付け途中であったHさんに同行していただき、阿弥陀寺に車を駐車させてもらいました。さらに地元の歴史に詳しい方に穴観音まで案内いただきました。道幅も狭く、初めての訪問ではさすがに迷います。次回調査の際にも案内いただけることになりました。たいへんありがとうございました。
幡豆の古城?鳥羽川坂城
私は天気がよくなると、むやみに外出したくなる性分。我慢できませんでした(笑)。
本日は午前中の仕事を済ませて、午後から妻の実家を訪問がてら1時間ほどかけて幡豆町の2城を訪ねました。目的地は、鳥羽古城(川坂城)址と欠城址。川坂城は20年ぶりの再訪ですが、欠城は初めてでした。母親が撮影した欠城址の写真を見ていたため触発されたわけです。ただ今回は事前の準備はなく、中世城館調査報告書だけを頼りにしたため、少しばかり道に迷いました。

2城は、史跡公園化している寺部城址から近距離の場所ですが、来歴も含めて不明な点が多いようです。

鳥羽川坂城は、12年前に道路建設にともない発掘調査が実施されています。以前訪れた時とはすっかり様変わりしていました。観音寺背後の墓地が分断される形で、立派な道路が吉良町方面から火祭りで有名な神明社前を通り西幡豆交差点方面に抜けています。城址は標高30m前後(比高15m)の丘陵地(竹林で覆われています)で、観音寺、通因寺方面に舌状に迫り出しています。道路に遮断された北側の墓地に至る階段下に城址碑(鳥羽城跡)があります。墓地辺りからは、きらきらと光る三河湾が望めました。(携帯で撮影した上の画像です。クリアな画像でなく、わかり辛くてすいません。)
丘上の墓地裏手下に曲輪らしき一画が広がっていますが、城址北側の登り口から上がって来ないと、内部の様子は見えません。

道路建設のための破壊以前に、かなり改変が進んでいるような気がしました。土塁や堀、小規模な曲輪らしき遺構も見られますが、虎口の位置が今ひとつわかりませんでした。単郭の城とされていますが、発掘調査の報告書を見てから再度訪ねたほうが良さそうです。

http://www.maibun.com/DownDate/hokoku/syoroku/0690.html
饗庭城跡(幡豆郡吉良町饗庭字城山)
円通院の縁起では、永徳3年(1383)加賀国石川郡の石川妙鶴丸は高義親王の子孫であり、後小松院の勅宣により饗庭七郷を賜り、饗庭妙鶴丸と名乗り、居城としたのが、現在の城山であるといわれています。
足利尊氏の家臣山内首藤時通が饗庭御厨の代官となり、その子が妙鶴丸(命鶴丸)であったともいわれます。妙鶴丸が加賀の白山大権現を祭ったのが北方にある白山神社です。妙鶴丸(初代の子孫でしょうか・・・)が、寛正5年(1464)後期饗庭七郷を開発しましたが、文明7年(1475)当時西三河に進出を図っていた松平信光を金蓮寺において呪詛したことが発覚し、自害したと伝わります。松平氏の手に落ちた饗庭城は、松平氏配下の松井氏が支配することになりました。

私が訪れた時には城址碑は既になくなっていました。城山は金蓮寺の前の道を東に向かって小山田地蔵さまに抜ける道の途中、白山トンネル南信号を越えた100メートルほどの場所に位置します。田畑のある字城下に南面した丘陵地であり、西南方向に舌状に突き出ています。畑地や竹林の中にありました。そこには遺構らしきものは見当たりません。
自転車で城跡東側の車道を登っていくのはかなりきついですね。
城山先端部だけでなく、白山公園あたりまで含めた背後の山々全体が城砦化していたように思われるのですが、調査はそこまで入っているのかな・・・。
それにしても周辺は不法投棄が多すぎます。非常に残念です。
【画像は、東方から饗庭城跡を望んだものです】
鴛鴨城(豊田市鴛鴨町矢迫)
豊田・岡崎に所用があり、鴛鴨周辺を少しだだけ散歩しました。
以前は車を利用し、矢作川沿いの神ノ木にある家康渡船の地から歩いたことがありますが、今回は電車利用して、鴛鴨城址と隣松寺を訪問しました。

愛知環状鉄道永覚(えかく)駅の南東200mほどの田畑の中の一角に東屋のある小公園のようなスペースがあります。矢作川、明治用水、高速道路に挟まれた地域です。遺構はなく、ぽつんと鴛鴨城址の碑だけが残されています。説明板等はありません。

岩津の松平信光が鴛鴨の酒井氏を倒して、子供の親光を入れたと言われます。続いて親康、親久と続き、鴛鴨松平を称しました。親久は、三河一向一揆の際に家康のもとで城を守りますが、永禄年間に4代目の忠久が西条城に入るなどして廃城になっています。
南東方向にある松平親康、親久、榊原清長、長政の墓等を巡ったあと、鴛鴨松平の菩提寺隣松寺に参拝し、細川氏、二俣で戦死した内藤弥次右衛門清長、松平忠吉の墓参をしてきました。
長篠城址の野牛門跡はどこに
昨日の長篠城址の発掘調査で、野牛門跡の遺構が8Bトレンチでは発見されなかったのですが、このあたりは「ヤグラドバ」(野牛曲輪の南端一段下がった箇所)と呼ばれていた部分です。素人考えではありますが、縄張図から考えると、野牛門はもう少し北側の「8野牛郭跡」の碑が建つ東側あたりにあったのではないかと思われるのですが・・・。いずれ今後の調査ではっきりするでしょう。楽しみにしています。
また16世紀後半以降と思われる真っ赤な色をした地面が確認されましたが、戦いに関わる焼失による変色なのか、現時点では確証は得られないようです。

(画像は、8Bトレンチで確認された近世以降の柱穴付近です)
砦散策
発掘調査現地説明会のあと、設楽原古戦場を少々散策した後、お城関係のお仲間の砦散策に相乗りさせていただき、新城市乗本の2砦に登ることができました。お仲間のおかげで地元の方の案内をいただくことがきましたので、無難にこなせましたが、それでも滑落の危険は何度かありました。中山砦跡散策は中学2年以来ですので、まったく記憶なしの状態ですから初心者同然。
東名工事のため中山砦がなくなる前に来ることができてよかったです。ただ登頂を始めた時間が午後4時近くで、おまけに雨が降りはじめるなど悪条件下の撮影でしたし、十分見学できなかったので、別の機会に再度チャレンジしたいと思います。
工事が始まり砦の全貌がわかるような状態も見てみたいですが、その時点では山に入れないかな・・・。
ついでに、猪のヌタ場やケモノ道を見ることができ、楽しさ半分、怖さ半分(猪に遭遇しないか・・・)。ヌタ(沼田)は泥田という意味もありますし、ケモノのお風呂?みたいなものでしょうか。「のたうちまわる」という言葉も、のた=ヌタから来ているようです。そういえば案内いただいた方が、猟師はケモノ道を「うつ」と呼んでいると話しておられました。もしかしたら「のたうつ」が語源でしょうか・・・。また機会をみつけて調べたいです。
長篠城址第8次発掘調査現地説明会(12/2)
長篠城址第8次発掘調査現地掘説明会、ぎりぎりまで家族交渉を行い、許しを得て参加してきました。
午前11時過ぎ、昨年実施された発掘現場周辺に集合。少々遅刻しましたが、まだ説明会は始まっておらずセーフ。参加者は20名程度。天気は晴れ。
JR飯田線の踏み切りを渡って、野牛曲輪側へ移動。3箇所のトレンチについて、学芸員の方から説明を受けました。ちょうど飯田線を見上げる場所にあり、今日はなんだか飯田線がうらめしく感じました。
今回の調査では、天明二年(1782)作成の古絵図の溜池(8Aトレンチ)にあたる場所からは木杭が4箇所からみつかり、曲輪と池もしくは溝(南北5〜7m、東西約40m以上)との境界を示す柵列が想定されます。検出面は粘土、シルト層で水の溜りが見られます。付近には城兵の喉を潤したと思われる殿井もあり、地表にしみ込んだ雨水があふれ出しています。長篠合戦後、野牛曲輪の一部は田になってしまったようなので、おそらく溜池は近世期のものではないでしょうか。それにしても流れ出ている水量の豊富さはかなりのものですね。
木杭北側の波形状態はなかなかわかりずらく、具体的に防衛的な意図があって作られたものなのか明確でなかったように思います。
鉄橋から程近い場所にあたる8Cトレンチの上方でみつかった土塁の立ち上がり方から、JR飯田線はまさに主郭と野牛曲輪の間にあった土塁上を走っていることがわかります。合戦当時のように土塁があっても、本日偶然登ることができた中山砦あたりから主郭は丸見え状態ですし、今回の調査で宇連川に面した場所から土塁が見つかっていないことから、要害地形を頼りとして河川側に対する防御は手薄だったと思われます。対岸からの矢玉を防ぐためには、やはり図屏風に見られるような簡素な作りの塀などがあった程度でしょうか。
篠場野、有海方面の包囲軍(武田軍)が寒狭川を渡河し野牛曲輪へ竹束を押し立てて仕寄ったので、渡合の南門から城兵(奥平軍)が出撃し追い立てて、竹束を焼き払う(5月11日)と、翌日も敵が竹束で仕寄るというような記述があります。城兵は矢石で応戦したようですが、当然火縄もある程度野牛曲輪に配備されていたはずです。塀が引き破られたりすれば、瓢曲輪の戦闘のように畳等を臨時の盾代わりにしたのでしょう。
古絵図にある主郭北面の大土居と東端の土塁の切れ目(虎口)から近い場所(8Aトレンチはやや東南部)であるので、8Aトレンチのさらに北側から瓢曲輪方面にかけて発掘調査してほしいです。でもそうすると、飯田線を止めないといけなくなりますね。いっそ高架式にしてくれないかな(笑)。
出土遺物は少なく、土師器の鍋が多く、その他陶器片や鉄砲玉(1個)なども見つかっています。学芸員の方のお話では、今回出土品の目玉は木製の黒塗りの椀?盃?であるとのことで、(朱塗りの巴紋)が入っていました。調査報告書を待つことにします。
来年度の発掘調査の主眼は、中堀の末端調査にあるらしいので(聞き違いだったかもしれないので、少々自信がありませんが・・・)、全容解明は、ずいぶん先のことになるかもしれませんが、少しでも早い調査が待たれます。
中野城山(東京都中野区)
(中野城山:東京都中野区 2005/12携帯撮影)

谷戸運動公園の北側に当たります。太田道灌の砦跡とも言われていますが、堀江氏の居館址(方形区画館)と考えられています。平成15年の発掘で障子堀が検出されています。

公園南側に、城跡の説明板が立っています。城跡は北方マンションが建つあたりのようですが、遺構もないようですし、関係者以外立ち入り禁止の看板があり、公園だけであきらめました。撮影時間が遅く携帯撮影のため、暗く見づらくてすいません。

学生時代の住まいはここからさほど遠くない場所にありました。荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、中野は私にとってとても懐かしい街です。
丸根城址(豊田市野見町)
丸根城址:虎口北側から北曲輪を望む(2004/4)

過去の思い出ですいません。2年半ほど前のこと、長年世話になった伯母の病気見舞いの帰りに、丸根城址を1人再訪しました。何となく城址の桜が見たくなったのです。
矢作川に架かる鵜の首橋を渡る際は、無事車が通過できるか不安でした。湖西の瀬戸も苦手ですが、運転技術が未熟な私にとって、ここも何度も通りたくない道です。
城址では、遺構よりも散りゆく桜花の方に目を奪われました。強く吹く風がなんだか恨めしかった・・・。伯母は、この2週間後に急逝しました。
母親は戦前から戦後しばらくの間、大家族で挙母の地で暮らしていました。しかし、ここ数年で10人近くいた伯父、伯母はすべて亡くなってしまいました。山之手、金谷、野見、古瀬間は懐かしさとともに悲しい思い出でいっぱいです。
羽田村古城
今日は夕方から徒歩30分ほどの外回りの仕事となりました。用事をそそくさと済ませた帰還途中、豊橋駅西口から懐かしい道を足早に歩いてゆくと、以前お世話になったアイクワさんの前を通過・・・。クワ熱が出て、思わず吸い寄せられそうになりました。さらに北西方向に進んでいくと、花田町字築地あたりに出ました。そして字百北に向かうに従い、豊○工業さんが見えてきました。知らない間に城跡に吸い寄せられていたのです(笑)。

ここは、羽田村古城跡です。城主は、石原百度兵衛、鋤柄百度右衛門と伝わっています。今回は偶然の立寄りとなりましたが、3度目の訪問になります。城跡に遺構はありませんが、北側に回れば(会社の入り口を右手に見ながら坂を北側に下りていきます)敷地側が高台(比高5m)に位置することがわかります。地籍図では、台地端に位置し、北と南の2つの曲輪に分かれていたものと推測されます。台地の西北側は現在駐車場や宅地になっていますが、地籍図では池となっています。
日暮れが迫っていました。携帯カメラでさくっと撮影して引き上げました。わずか数分の滞在でした。
現在細君のPCに間借りしている関係上、携帯撮影のものしか画像UPできない状態にあります。デジカメ映像をUPする日はまだまだ遠そうです。
巴江城水堀にて
今日は、来週の講演準備のため、資料作りと調べモノに追われていました。
午後5時過ぎに田原市中央図書館を引き上げて、徒歩5分ほどで巴江城桜門(大手門)前に到着。既に陽は傾き、辺りに人通りはありません。桜門から城内に入ると、肝試しをしている子供たちに出会いました。どうやら古井戸までたどり着けるかどうか競っている様子。そういえば私も小さい頃、よくやりました(笑)。
しばらくして子供たちの声も聞こえなくなり、とっぷりと陽は暮れました。まるで狢でも出そうな雰囲気です。門の南東の水堀の水面には月が映っていました。
城跡から渥美線田原駅までは徒歩10分程度の距離。この時間では中小路はちょっと心細い・・・。大通りに出て、はなとき通りを足早に駅に向かって歩き出しました。
三河三ツ木城跡(岡崎市)
3年ほど前までに撮りためておいた城跡の画像を中心に、別HPで拙いお城アルバムを公開していたことがありました。その中に豊橋・田原市・新城市・西尾市などのアルバムもありました。ところが、岡崎市関係を作成中にすべて画像を失ってしまいました。幸い画像のバックアップはしていましたが、作り直す気力がなく放置しています。そろそろ整理しなおします。
西尾市の思い出深かった城跡は、松平蔵人信孝・康孝兄弟ゆかりの浅井西城跡です。八幡社のある高所地(遺構はないようです)が有事に立て篭った場所か、あるいは物見の場所だったのか・・・。字宮下の土塁・空堀が残るあたりが居館跡だったのではないかなと勝手に想像していました。
弟康孝の所領を横領した兄信孝は、清康亡き後の松平宗家に戦いを挑み敗死に至ることになります。信孝が奪ったのは、浅井西城と三ツ木城(岡崎市下三ツ木町城堀)と伝わっています。永井城に立寄った際に、ついでに三ツ木城跡にも足を運び、久々にデジカメに収めました。
辻の地蔵堂のある交差点の一方通行道を東進してビニールハウスの途切れた辺りにある立派な門のあるお宅周辺が跡地ですが、残念ながら遺構は残っていません。
ちなみに西尾市上羽角出身の村越茂助も後に三ツ木城を領していたようです。
浜松城周辺の散策?
昼過ぎからJR東海道線に乗車すること約30分、浜松に到着しました。今日は秋晴れの好天気で、駅前はもちろん、体育館・浜松城公園あたりはイベントもあり、すごい人手でした。
4年ぶりの浜松散策です。今回は車ではないので、広範囲は廻れなかったのですが、街中は入り組んでいるので車はかなり不便そうです。
駅からは健康のためすべて徒歩。今日のメインの散歩コースは、東照宮(曳馬城跡)→浜松城→秋葉神社(奥平信昌邸跡)→西来院(築山御前廟所・松平康俊墓)→宗源院(三方が原合戦の徳川方戦死者墓地)→宗円堂(犀ケ崖資料館)。「家康の散歩道」というモデルコースがありますが、時間的に無理でした。といいながら、お城公園の日本庭園でのんびりしてきました。たいしたことではありませんが、お城の入場券が変わったかな?
秋葉神社あたりを歩いて気づいたことですが、近世期の武家屋敷の西端が秋葉神社、鴨江寺、法務合同庁舎北あたりにあったようですね。秋葉坂をはじめ坂が多い場所ですね。西方に備えて、広い敷地を持つ寺院寺社が城を守るように配置されているような印象を受けました。
さすがに歩きつかれて、帰りは犀ケ崖から遠鉄バスに乗り、浜松駅にたどり着きました(料金160円)。めったに単独行動などできない身分なので、今日の散歩は気分転換になりました。
久保神社と久保村古屋敷跡
豊川市八幡町の大池周辺は寺社や遺跡など見どころも多いのですが、最近は区画整理、住宅開発が進み、周囲の景観も驚くほど変わりつつあります。
名鉄国府駅からも程近い場所に、久保神社(同市久保町)が鎮座しています。姫街道の南側、上宿交差点付近の船山古墳の東南に位置し、かなり近い距離にあります。神社の北には古墳が見られます。社地に足を踏み入れると、昼間でも薄暗く、一人ではやや心細くなります。
この久保神社には永正年間の棟札が2つ伝わっています。時期的には今橋城の牧野古白が亡くなり、城が戸田氏の手にあった頃にあたります。
寄進者は牧野平次という人物で、おそらく一色牧野氏の一族でしょうか。詳細はわかりません。「三河国二葉松」には、この人物が久保村古屋敷の主であるとしています。屋敷跡は、久保神社の西南部の上見堂地区に比定されます。数年前まで土塁らしきものが残されていましたが、宅地化のためほぼ滅失しました。この土塁とて屋敷の遺構という確証はありません。
上見堂地区付近から南西部の下屋敷地区方面に向かってかなり下っていて、ここが高台に位置することがわかります。
設楽原散策?弾正山にて
家康は設楽原の一戦の前、牧野氏の牛久保進出とともに興隆した法憧山上善寺(豊川市弥生町)に宿陣し、開運の祈祷を受けています。また還道和尚が設楽原に従っており、戦勝のあかつきに長刀を拝領したということです。山門前の標石に「東照神君御陣・・・」「御開運馬頭観音菩薩」などと刻まれています。
設楽原に到着した家康は、弾正山の八劔神社(東郷中学校西北側)に本陣を置きました。連吾川を挟んだ東部の丘陵には、武田軍中央隊の先陣内藤昌秀(昌豊)をはじめとする兵三千(主将武田信廉)、後部の勝頼本営5千、右翼には先陣馬場信房はじめとした三千(主将一条信竜)、左翼には先陣山縣昌景など武田の精鋭四千余り(主将武田信豊)が布陣しました。最前線に立って設楽原を見下ろす家康には、武田軍がどのように映っていたのでしょうか・・・。
八劔神社への石段登り口右手に本陣地の石碑があります。
ちょうどこの付近にも帰化植物であるアメリカセンダングサが黄色い花を咲かせ、碑の回りをすっかり取り囲んでいました。秋口は道端などに繁茂しています。果実は引っ付き虫なんて呼ばれて嫌われています。

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