豊川散策?

2005年1月23日 城跡散策
午前中3時間ほどかけて牛久保の城下を徒歩で廻ってきいました。昨年2月にも牛久保城址周辺を歩きましたが、その日も確か雨天でした。今日もうす曇りの天気で、ぽつぽつ小雨が降り出しました。
本日の目的は牛久保城主・牧野成定公が豊橋の下地聖眼寺から太子像を移して安置したという養樹寺の太子堂と東三河十七騎の一・岩瀬雅楽助(嘉竹)の塚跡に位牌を安置しているという嘉竹居堂の2つ。先日聖眼寺で太子堂を、瓜郷満光寺で嘉竹の墓を拝見してきたところでしたので、ぜひお参りしたかったわけです。嘉竹居堂は民家裏手にあり、非常にわかりづらかったです。ちょうど年輩の方がお参りにいらっしゃっていてお話をうかがうことができました。堂内には嘉竹居堂の額・由来記が掲げられ、弘法大師、お不動様、観音様が祀られていて、線香の煙が充満していました。昭和初期にはお堂があったようですので、長年にわたって地域の方の信仰の対象になっていたようです。(続く)

〔本日訪問した寺社・史跡〕

長山熊野神社、長昌寺、嘉竹居堂、上善寺、善光庵、養樹寺、法信寺、浄福寺、庚申寺、光輝院、牧野成定公廟、東勝寺、長谷寺、了円寺墓地(中神善九郎墓)、牛久保城址
 
午後から1時間ほどかけて下五井古屋敷址(豊橋市下五井町字城屋敷)と満光寺(豊橋市瓜郷町高道)を散策してきました。
前者は、城主は中島氏、星野氏などといわれていますが在城時期など詳細はわかっていません。遺構もありません。豊川の行明城の星野一族に日向守などがいて武田氏に属して没落したという伝承がありますが、今川に従った星野一閑の同族なのでしょうか・・・。
日吉神社を目標にして、神社の駐車場をお借りすることにして、住宅地図を広げ神社南側に広がる亀甲形をした字城屋敷周辺を回ってきました。新しいアパートなども出来ていますが、この地域は区画整理もほとんどされておらず、明治の地籍図と現在の住宅地図とほとんど変化が見られないようです。古くからの屋敷もあるようで、付随した屋敷林も見られます。地区の公民館敷地に延命地蔵や弁財天が祭られています。明治の地籍図には墓地表示があり、現在宝筐印塔や萬霊塔、常夜燈などが見られています。移動されず長くこの地域にあったとすると、ここが昔から地域ネットワークの中心地だった証拠といえるでしょう。

曹洞宗満光寺は国道1号線沿いにあります。近くには弥生時代の貝塚や住居跡が発見されている瓜郷遺跡があります。
満光寺は天文年間に大津波で堂宇が流されて記録が残っていないものの、創立は梵鐘からも大永年間(1520年代)に遡るものと思われます。一歩先は1号線の喧騒がありますが、ここはそれを忘れさせてくれるほどひっそりとした佇まいでした。お寺の広い駐車場がありますので、お借りできひとまず安心。
阿弥陀如来様で有名なお寺ですが、わたしの目的は岩瀬雅楽助の墓のお参りにありました。雅楽助は入道して嘉(歌)竹と号しています。『寛政重修諸家譜』には岩瀬氏俊の子供として“氏定”とし、天正3年設楽原合戦で戦死したとあります(法名:法林院殿松誉春光嘉竹大居士)。「可竺」と記載した古書もあります。
岩瀬雅楽助は蒲郡の大塚(岩瀬)城で出生。永禄4年(1561)下長山に移りました。今川氏に従った東三河十七騎の一。今川氏の命により、西条城(現在の西尾城)に入っていた牛久保牧野氏を補佐。のち家康に従いました。豊川市下長山中屋敷には春光塚跡地にお堂があります。嘉竹の子息小次郎は千両に移りました。3男小四郎は今川氏の代官。一族と思われる岩瀬小五郎という人物も下五井方面の代官だったようです。
牛久保に残った一族、瓜郷に移った一族が見られます。満光寺墓地内に岩瀬氏の子孫の墓が見られるので、瓜郷に移った一族がこの墓を建立し守り続けていたのでしょうか・・・。墓石には岩瀬嘉竹斎墓と縦2文字ずつ3列にわたって書かれてありました。
お参りに訪れた当初は一般墓地内を一生懸命に探してしまいました。子孫の方の墓石とともに無縁仏化しつつあるようなので、とても残念です。

【参考文献】
・牛久保・長山郷土史史料写真集
          安井四郎著(S57)
・豊橋市史 第1巻 (S48)

(追記)
なお、岩瀬雅楽助は桶狭間合戦後に上佐脇村〔御津町〕に帰農して岩瀬吉十郎貞秀と名乗ったという言い伝えがありますが、こちらは勉強不足で詳細はわかりません。
帰省したついでに、2時間ほどかけてデジカメに収めていない豊川の城址をいくつか撮影してきました。まずは牧野氏の城址である瀬木城、牧野城、睦美(三ツ橋)城と贄氏の麻生田古屋敷址などなど・・・。
牧野城は毎年正月に訪れていますが、瀬木城と麻生田古屋敷は中学3年以来ですから20数年ぶりでしょうか。牧野城と比べて、瀬木城は当時とさほど変貌していなかったので安心しました。雨季は堀に水がたまっているし草が生い茂っていて大変ですので、この時期に訪れるのがベストでしょう。幸い土塁や堀もしっかり見ることが出来ました。
後者の2城は遺構らしい遺構も見当たらず、石碑や案内板もありません。睦美城址は堀が残る屋敷の持ち主の方に偶然話を聞くことができました。屋敷の建て替え等で堀もだいぶ埋まってしまったようです。地域は城山の呼称が残っていて言い伝えもあるようでした。城主である牧野助五郎は一鍬田(新城市)の領主でもあり、他家から養子に入った人物のようです。
ついでに牧野氏関係でいえば、睦美城の北方に位置する讃岐屋敷跡は現在公園化していますが、20数年前は無住で老朽化し周囲は草木が生い茂っていました。昼間でも薄暗く、一種異様な雰囲気が漂っていました。
贄氏については、丸根砦の活躍で勇名をはせた贄氏信の墓碑が市内新豊町に建てられていますが、いまひとつ実体がはっきりしないで残念です。大楠で有名な玉林寺付近が屋敷址と思われます。古墓の残欠とおぼしきものが見られるので、ひょっとしたらこの中に墓石もあったのではないかと考えてしまいます。
(続く)
息子が「探検に連れて行け」と言い出したのを幸いに、ふらっと城址めぐりに出しました。
釣月寺に参拝する予定もあり、息子でも楽々散策できる城跡という選択をしました。メインは田峯城と田内城。田峯城だけは入場料を払ったことや甲冑が展示されていたのを覚えていたらしく以前連れて来たことがすぐにばれてしまいました。
島田の菅沼定盛が築城した田内城(金ヶ崎城)は平山城で、主郭である削平地には祠が祭られています。以前は二の丸が墓地となっていましたが、どうやら移動したようです。田内城址の東方に位置する多宝寺の裏山の削平地は菅沼道満の屋敷址で道満稲荷が祀られています。はじめて名前を聞いたときはセーマンド−マンを思わず連想してしまいました。
社殿裏を土塁が走っていますが、さほど高さはありません。周囲をめぐっていたのではと思われますが、長い間に破壊されてしまったのかも。猪垣ではないかという見解もありますが、それもいまひとつ納得できません。土塁を東方に辿っていく(有刺鉄線の外)と虎口に似た箇所も見られるので、今後しっかりした調査が行われることを望みます。

〔本日の訪問〕
 塩平城、双瀬古城、田内城、道満屋敷、田峯城
息子がサンダルで歩けるお城に探検に行きたいと言い出したので、赤沢城(畔田城)址に二人ででかけることにしました。息子は大の靴下&スニーカー嫌いで、冬でもサンダル履きでいます。夏場はほとんど裸足。作手の古宮城散策の時もサンダルでした。
冬枯れの時期でもあり比較的歩きやすい赤沢城を選んだのですが、サンダルでは??と思いきや、息子は先頭に立ち、土橋を通ってあっという間に主郭まで達しました。もっとも一般の方の散策用に土塁などの案内表示もされて、かなり整備されてきてますから。
突然前方で息子の奇妙な悲鳴!すわ深い空堀に落下したのではと思いましたが、蜘蛛の巣にひっかかっただけでした。(^_^;)

赤沢城は太平洋戦争中の改変の可能性が指摘されていますので、どこまで室町期の遺構が残っているのかわかりません。今後聞き取りも含めて調査が必要ですね。資料があればいいのですが、戦時中のことを知っている人々がやがていなくなってしまうのが残念です。

息子は一城だけでは物足りないらしく、さらに他の城跡に行けとの御達し。船渡の公園に行きがてら大崎城址と伊庭城址にも立寄りました。
息子はルンルン気分でしたが、さすがにサンダル履きでは大崎城の空堀などには近づけませんでした。伊庭城址についてはどうも想像していた城と違ったようで不満タラタラ・・・。土塁だけでなく曲輪や堀も残っていると思っていたようです。
どこまで城跡に関心があるかはわかりませんが、確実に親の影響を受けているようです。また復興櫓等があったりしてよく整備された城跡は嫌いなようです。
午前中に代休がもらえたので、デジカメに収めていない近場の史跡巡りを思いつき出かけることにしました。昨年息子を連れて散策しているコースです。今回は一人でじっくりと考えていましたが、途中職場から緊急コールがあって短時間で切り上げとなりました。
そんな中でまず月ヶ谷付近で石棺が残る多くの古墳を見がてら月ヶ谷城の登り口途中にある西郷信員神霊碑に参拝。碑の右下には五輪塔の残欠部分が置かれていました。それにしても古墳が多いのには改めて驚き。

時間が余りないので、急いで日吉神社に参拝し、萩平山城(鷹打砦)と西川城の撮影を終えて帰還しました。萩平山城址へは県の林業公社営造林地の標柱付近から登ります。山林がかなり伐採されたあとで、登山道は明瞭ですが、一気に駆け上がるにはちょっときついかも。山頂手前の東方への眺望は開けていて中山峠や五本松城址方面を望むことができました。山頂の秋葉神社の裏手にある空堀は確認できましたが、堀切は伐採した木や雑草で埋もれているのか確認できませんでした。

三河大野再訪

2004年11月23日 城跡散策
山登りをしたいというのでお昼から息子を連れ出し、鳳来町大野の大野城址(通称城山)に向かいました。

JR飯田線三河大野駅からも比較的近距離です。南北朝期に足助重範一族の鈴木喜三郎によって築かれた城といわれますが、戦国期には菅沼氏の支城でした。まず所縁の淵龍寺を訪ね、鈴木喜三郎の墓碑に参拝しました(説明板あり)。息子は無類の寺好きで長時間合掌していました。そして近くのコンビニ・サークルK(R151沿い)で腹ごしらえ。

ガソリンスタンドの裏手の舗装道路をしばらく進んで行くと、資材置き場隣の畑と宅地の間に説明板があり、登山道の所々に案内表示がありますので登山口に迷うことはありません。地元の散策コースになっているようです。低山ですので子供の足でも短時間で登れてしまうでしょう。
山頂に帯曲輪や空堀らしき遺構なども見られますが、明瞭とはいえません。主郭には清澄稲荷が祀られています。周囲は山林です。植林が進めていくうちに破壊されたのではないでしょうか。

藪こぎを多少したため、草の種子が服に付いてしまい、息子がパニック状態に・・・。それで散策は30分程度で中止となりました。菅原神社の山頂まで連れて行きたかったのですが、すっかり気力が失せていたようです。息子の気持ちが落ち着いたところで、帰りの道中に宇利城跡を散策して本日は帰還しました。
今日は午後から新城市内のデジカメで撮影していなかった城址や寺院を中心に回ってきました。

野田城址東方にある千郷神社(姫屋敷跡)に参拝後、横浜ゴム工場のタイヤゴジラを見ながら、中市場の下り地城址へ。土塁・空堀が確認できますが、案内表示等はありません。集合墓地になっていますが、墓石が散乱し仏様も損傷が激しく、多くが無縁仏化している様子が窺われ、薄気味悪さを感じてしまいました。北方の土塁開口部から見える鉄塔方向が大手口にあたり、吉田往還が東西に通っていました。富永氏の城址のようですが、明応年間に一族が東条吉良家の家臣化したようです。子孫は藤波畷で戦死した富永伴五郎につながっているのでしょうか。

池田輝政家臣であった片桐氏の石田城址は主郭が茶畑になっています。西は野田川の崖となり、南は沼田を挟んで豊川が流れています。曲輪・土塁・堀などの遺構が明瞭に残っています。土塁周辺には栗のイガが散らばり、城址東方の泉蔵寺周辺にはカラス瓜、クサギが実り、秋を感じさせる里山の風情に浸ることが出来ました。

(その他の訪問地)
道目記城址、野田館址、泉龍院、出沢砦址、松尾神社・・・ 

参拝ついでに

2004年11月20日 城跡散策
今日は息子の学校行事の送迎に徹しました。その合間を縫って、5年ぶりに細君と2人でゆっくり外食に出かけました。
ついでに通り道にあるお寺になぜか参拝しました。和田の春興院。約2年ぶりくらいの参拝でしょうか。なぜか細君はここが城址であることがわかっていたようです。いつも車で通る時に必ず説明していましたから・・・当たり前です(笑)。
地元の方でも「和田の城」と言うと南方にある高井城址のことしか知らない人も多いようです。土塁や空堀の存在も忘れ去られているようです。江戸期の絵図にも混乱があるようですし、城主の和田・渡辺両氏についての記録も乏しいようなので、現時点では謎多き城と言えるでしょうか。
実は春興院近くにあるサークルKで息子と腹ごしらえをした時にも参拝していましたw

作手村の諸城

2004年11月14日 城跡散策
久々に息子同伴の攻城となりました。今日は息子の探検熱望もあったので、作手村入りしました。

息子が初っ端からアイスと蕎麦を所望したため、まず清岳にある「手作り村」で腹ごなし。今日はつくで祭りということもあってか人手がかなり多かったようです。おまけに手づくり村の裏山に当たる亀山城址はオリエンテーリングの会場となっており、海外の選手が闊歩していました。城跡散策の人間はほとんどなく、参加者から何をしに来たんだとばかり睨まれました。邪魔はしていないけれど(^_^;)
それにしても土塁を駆け上がって崩すのようなマネはやめてもらいたいですね。て整備され見学しやすくなったのはありがたいけれど、利用方法によっては、遺構も長持ちしないでしょうに・・・。

息子にとっては、整備され明るく見通しの良い亀山城も川尻城なども満足できる城モノ?ではなかったようです。やむなく古宮城址を追加。
子連れでもあり今回はスタンダードに白鳥神社拝殿右手から入りました。他城と比べれば杉木立に囲まれて暗がりが目立ちますが、以前と比べてかなり歩きやすく遺構も確認しやすくなっています。甲州流のハイレベルな縄張りであるため、息子にはかなり攻め甲斐があった様子です。

応永年間から天正年間にかけて築城されたといわれる6城が狭い地域に集中しているし、家族連れでも回れるのがなんと言っても魅力です。私が子供の頃は整備されていなくて散々でしたが。

中学時代から何度か作手村の諸城には出かけていますが、デジカメでの撮影は今回初めてということで、私としてもまずます満足でした。
しかしそろそろカメラのレベルUPをしなければと思っています。もっとも稚拙な私の撮影技術が一番問題でしょうが・・・。
久々に額田町の城跡を散策しました。雨山合戦の地を訪ねるため、豊川市千両町から入ることにしました。雨山ダムには駐車場やトイレもありますし、のんびりしながら散策もいいかもしれません。釣り人もちらほら。
この地で戦死した野田城主・菅沼定村公の墓参りをすませました。今川から離反し織田に走った雨山砦に篭もる奥平貞勝らと戦闘を繰り広げました。台石のみで野田の人々が持ち去ったようです。
崖の上からのススメバチの襲撃を受け一時退散しました(汗)。
今日は控えめに亀穴城・久保城・日近城・夏山城他の城跡を散策して引きあげました。

奥平仙丸君の血染めの打敷が伝わる華蔵院住職さまからいろいろお話をうかがいました。またお食事中にも関わらず、万足平の三つ石や猪垣の位置を教えてくださったご家族には頭が下がりました。

墓参・・・遊仙寺・広祥院(奥平仙丸・おふう・奥平貞勝・黒屋重吉など)

遠州ぷち攻城

2004年10月23日 城跡散策
最近は県外遠征が、めっきり減っていますが、本日は静岡の磐田市〜袋井市〜森町を中心に回ってきました。
真田山城址付近ではジャンボ急須で有名な御茶屋さんで一服。抹茶のお茶漬け等を購入。

(本日訪問の城館)
中泉御殿、見付端城、城之崎城、久野城、木原畷古戦場、飯田城、真田山城(一宮城)、天方城

(つづく)
大府方面に出向いたついでに、大府高校の南にあたる石ヶ瀬川古戦場と東浦の村木砦址と村木神社周辺を散策してきました。今川方と織田方との戦闘のあとですが、遺構はほとんど残っていません。古戦場の説明板は工事中のため撤去されたらしいです。残念・・・。
足を棒にしながら散策中、急に雨が降り始めたので、村木砦址の八剣神社でしばらく雨宿りさせてもらいました。しかし考えてみると、戦死者の鎮魂のために建てられた神社であり、無礼千万でした。お詫びにお参りしてきました。(+_+)

村木砦址までJR武豊線尾張森岡駅から徒歩5分余りと至便なのですが、何分本数が少ないので(1時間に2本)、かなりのロスタイムが出てしまいました。次回は何としても車で回らないと・・・。久々に常滑周辺の城を再訪したいと思っています。

雨の船形山

2004年8月30日 城跡散策
天気が良かったら低山ハイクをするつもりでしたが、あいにくの雨。
でもせっかくの休みだから、近場なら多少の雨でも行ってしまえ!という勢いで、市内の名刹普門寺と船形山城を散策。ここは高校時代以来の再訪です。
2時間の時間制限があったので、一気に山頂の城跡まで駆け上がりました。自然歩道になっていて登山道は整備されているのですが、やはり夏場は草木が生い茂っていて歩き辛いです。途中で風雨が激しくなり、虻やハチの襲撃にも悩ませられました。おまけにすごくガスッっていて視界は不良。登山者を一人も見かけませんでした(当然・・・)。加えて運動不足は老体には堪えました(>_

信州旅行3

2004年8月29日 城跡散策
まだ家族が寝ている早朝を利用し、城址を散策しました。
本日は細君が、もう一度「伊那谷道中」に行って満願成就の湯に入りたいと言うので、飯田に向かいました。途中息子を遊ばせるために春日公園と台城公園で休憩。

(本日訪問の主な城址)
福与城・春日城・船山城・名子城・大島城

船山・名子城は初訪問でした。細君はむしろ高遠城址が希望だったのですが、何回か訪れている私の意見を入れて変更しました。
満願成就の湯では息子は洞窟風呂がいたく気に入った様子でした。風呂から上がると、あたりはかなり暗くなっていましたが、山頂からの景色を楽しむために近くの久米ケ城址へ。平谷村にある道の駅を経由して、根羽村〜稲武町〜設楽町を経由して帰還しました。
細君の実家に出かけたついでに安城市内の城址を撮影してきました。
16年ほど前の教員時代に安城に住んでいたこともあって、すべて再訪箇所ばかりでしたが、じっくり撮影したのは久しぶりでした。古墳散策もやってしまい、時間制限もあって他の城址は撮影できませんでしたが、また機会を見つけて出かけるつもりです。

(本日の撮影箇所)安祥城、安城古城、冨士塚古戦場跡、山崎城、高木城、保科正直邸跡、桜井城、小川城(本城公園)、誓願寺、藤井城、木戸城、東端城 など等
+幸田町の野場西城
短時間でしたが、故郷を訪れました。息子の希望でとうえい温泉に浸かり、雨の合間に数分だけ設楽城址を散策しました。時間が十分に取れず残念でした。ちょくちょく出かけるのですが、息子と訪れたのは今回が初めて。中学時代に山百合羊羹を食べながら友人と縄張りを調べた思い出の地でもあります。
今度はゆっくり先祖の墓参りを兼ねて再訪するつもりです。盆休みがとれそうにないので、11月の花祭フェスティバルの頃になりそうです。

攻城計画

2004年7月28日 城跡散策
久しぶりに読み返していたら、急に新府城を再訪してみたくなってしまいました(^_^;)
卒論作成のための城攻め以来ですから、かれこれ20年近くになるでしょうか。来月の家族旅行のコースに入れようと画策中ですが、細君が早くも私の野望に気付いたようです。韮崎限定にして白山城、能見城も一緒に回ろうと考えていますが、前途多難です。大きくコースを変えられても(信州方面でも・・・)武田の城跡を一城でも攻めたいと思っています(笑)。

ISBN:4404029128 単行本 網野 善彦 新人物往来社 2001/03 ¥2,520
午前5時過ぎに設楽原古戦場に到着。武田方武将の墓参を済ませ、茶臼山の織田信長戦地本陣へ。一昨年のウォーキング以来でした。夜が明けたばかりで昨夜の雨で周辺は濡れてました。入り口の公園(遊具少々)や忠魂碑周辺はちょっと寂しい雰囲気。登り口周辺には多くの野仏さまが訪問者を迎えてくれます。ヒグラシの声は物悲しい・・・。
一面が山林のため展望は開けません。携帯カメラで案内板や信長歌碑を撮影し帰還。
今日はハードな出張終了後、夕方から田原市内を1時間ほどかけて散策しました。

?まず、道の駅(めっくんはうす)から程近い場所に位置する青津村古城址へ。上堀池辺りが跡地らしいのですが、遺構はありません。田圃の中の宅地に囲まれた墓地(栄杉寺址)にある碑だけが城址だったことを物語っています。城主は佐脇刀禰太夫とありますが、佐脇城主であったはず。当地を領していたのは本当らしいのですが、城館的なものだったのでしょうか。

?続いて、大草町前田の一色七郎館址へ。大泉寺東部の畑地に位置しますが、遺構らしいものは見当たりません。館址の説明板と一色七郎の墓跡の石碑が建っています。墓は昭和40年に長興寺の戸田氏墓地に移されています。
一色七郎政照は渥美郡代だったのですが、応仁の乱後、新興の戸田宗光に職を譲り、ここで隠居生活をしていたと言われます。没後に戸田氏が
館跡地に寺(宝憧寺)を建て、菩提を弔ったところをみると、関係が良かったのか、戸田氏側にやましさでもあったのか・・・。いずれにしてもかなり配慮していたようです。

?最後は田原市大久保の長興寺へ。元禄期復興の山門をくぐってしばらく進むと、本堂がある境内に至ります。境内を出て、西側が墓地です。ここにある戸田一族及び一色七郎の墓参を済ませました。墓地前には系図や墓石の説明板などがありました。

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